《軽量化》
先日ふと気づいたのが、
「断捨離って、軽量化のことを言っているのかな?」
と言うこと。
シンプルに、動き易くして、訪れる瞬間を存分に味わえるようにする。
身軽にして、今に集中する。
素敵なことだが断も捨も離も、それぞれの間に見えない「っ!」がある様な、中々に勢い強めな感じがする言葉。
勢いを付けないと分けられない程の、持つ者と持たれるものとの結びつきの強さが表れている。
勿論坦々と、又は粛々と断捨離される方も居るだろうが、この言葉の力強さに背中を押されてヤーッと試みる人々も多いのではないだろうか。
思い切ってやってみて、初めて変われる。
それもひとつの体験である。
断捨離が世に広まってから大分経つが、お片付けの定番ワードとして定着している感がある。
常に変わり続けるのが物理次元であり、世間もそれと一緒に移動しているので当然断捨離の扱いも変化し続けているが、暫くは用いられるだろう。
断捨離とは軽量化のことなのか。
違うとすれば、どこがどう違うのか。
観察してみて、断捨離と軽量化ではそれぞれフォーカスするポイントが違うことに気づいた。
断捨離は「そうされるもの」、つまり断ち捨て離す対象に意識が向けられている。
軽量化は「それをした後にもあるもの」に意識が向けられている。
何故なら「結果としてあるもの」の量が軽くなっているからである。
軽量化では数・量が減って軽くなったもの、身軽になった感覚、その感覚を以て行う生活に意識が向けられている。
所有物を厳選して必要最低限の状態にして暮らすことに価値を見出している人をミニマリストと呼ぶが、生活の軽量化はそれとも少し異なる。
厳しく選ぶのではなく、軽い感じで変化させて行く動き。
軽量化は主義ではなく、単なる動きである。
主義ではないので主張もなく、同胞と集まることもなければ他と衝突することもない。
顔を洗って古い細胞が自然に落ちる様な、平凡でごく当たり前なことなのだ。
「洗顔サークルに参加しよう!」とか募らないだろうし、「そろそろ話そうか、僕の顔の洗い方」とか記事の見出しにもしないだろう。
平凡でごく当たり前なこと。
そしてとてもすっきりする。
なおかつ自由なままである。
断捨離は、何でか知らないが終活と紐づけられることがある。
ミニマリストも、その意味を語る時に人生の限りある時間を豊かに使おうと言った話になったりする。
軽量化には、そうした先々へ向けた枠決めがない。
人生を、いのちを、決まった枠に囲うことなく、今に集中する。
軽薄とか、軽率とか、軽輩とか、軽は駄目なことや劣ることを指す時に用いられることも多い。
だが、軽くなければ出来ないこともある。
変容の時代はそれが増える。
興味が湧かれた方は、これまで哲学や美学や主義や理想を挟んで来たかも知れない生活の新陳代謝について、軽いノリで量を減らしてみる感じに意識を変えて見られることをお勧めする。
軽いと素直に進む。
(2023/10/2)