《見る目ある?》
前回記事の終わりに、「人目誰の目、己の目」と書かせて頂いた。
人の目にどう映ろうとも、モノコトについてそれが恥であると決定するのは常に己の目である。
心の動きに反応して耳が赤くなる前に、まず出来事を目の当たりにする、見ると言う動きがある。
その見る目に様々なものが張り付ているからややこしくなる。
世の人々から「恥を知れ!」と言われようが、当人から見てそれが恥ではなかった場合、どんな反応もピンと来ない感じのまま意識の外に置かれ、恥じ入ることはない。
逆に世間が何とも思っていないことでも、当人が何と見っともないことだろうと己で見なせばそれは恥となる。
不法行為が明るみに出て追及され批判にさらされてもケロッとしている人も居るだろうし、あと5ミリ鼻が高くならなければ堂々と表を歩くことも出来ないと打ちひしがれる人も居るだろう。
どちらにしても、彼らは彼らに見えるものを見ている。
逆に言えば、彼らにしか見えていないものを見ている。
以前にも書かせて頂いたが、これは人ごとに厚さや色味、透明度が違う鱗を目に張り付けている様なもの。
「見る目があるね」と評価したりする側にも鱗が付いていて、結局は自分の鱗が持つ色に近いものを「アリ」と言っているだけだ。
この鱗があるからこそ、こんなに長く恥と付き合うことも出来たのである。
虚空が不覚体験を沢山してみたかった時代には、まさに必要なことだった。
自分にとっての恥は、誰かにとっても恥、とは限らない。
これが分かると「恥は恥なんだ!」と言う、実は何の根拠もない絶対性が薄れる。
そして意識の中で幅を利かせていた恥の感覚による影響が弱まる。
何だってこんなことを書いたかと言えば、あの人は何て恥知らずなんだとか、この人はどうして何でもない様なことを気にするんだと思ったとしても、彼らの見ているものを外から見ることは出来ないと申し上げる必要があったから。
「ちょっと貸してよ、その鱗」
と、横から摘まんで自分の目にセットすることは出来ないのだ。
ここが分かると、向こうが恥を知るまで糾弾の銅鑼を打ち鳴らそうとしなくなるし、恥に苦しむ誰かに良かれと思ってあれこれ指図することもなくなる。
只、丸ままその人を観て、その人が向き合っているものを観て、その全てに天意からの愛を送る。
それが出来て初めて、全体一つの流れに沿った動きで、本当に言う必要のあることや、する必要のあることが見えて来る。
目を覚まして全体に溶けるまでは、意識にはごく薄くでも鱗は残り、ほんのりタッチの色眼鏡みたいになっている。
天意からの愛を意志して意識を虚空に合わせることは、その鱗を一旦虚空に返す働きをする。
そうして真っ新な状態で観て、実行体験することで、目の鱗は更に薄くなる。
ふと気づくと見る目に戻っている鱗を、又虚空に還して、真っ新に見る。
宮司を名乗る“これ”はある日、目が開き、次いで覆いがバッサーと取れたが、それとは違い上記の様に段々と覆いが薄くなって行く覚め方もあるのだと、上から示された時には成程となった。
見方を変えれば、恥に翻弄される人は、天意からの愛で全てを中立に観ることを始めた人の、覚めるまでの道を手助けしていることになる。
有難いことではないだろうか。
それぞれの役目、それぞれの歩み。
(2024/4/15)