《行き渡る力》
本当に僅かずつ、小さな一歩の連続で進む。
巳の動きの面白さに意識を向けていて、ふと気づいたことがある。
日本全国どこにでもある平凡さで、
細かく分かれて行き渡る水の力。
その出口が「蛇口」と呼ばれていることの味わい深さ。
水不足で節水が呼び掛けられたり、解決に至らなければ断水になったりと、給水は常に100%保証されている訳ではない。
だが、そうした非常時以外は概ね
開けたり閉めたりは自由自在。
必要な時に必要な量を提供。
当たり前過ぎると言うことなのか、忘れられているかの様に、このことは話題にならない。
蛇口の活躍が取り沙汰されて感謝されるのは、災害等で断水が続いた後に、水が出る様に復旧が叶った時位。
後はもう、蛇口から水が出ることが、それのみで人々の意識に上ることは稀である。
宮司を名乗る“これ”も、巳に意識を向けてみるまで、とんと気づかなかった。
「こんなにさり気ない、ちっちゃな力が縦横無尽に広がっている」
と、まるで今初めて見たかの様に、新鮮な驚きと共に蛇口を眺めた。
世界は毎瞬新しいのだから、実際、今初めて見ていると言っても間違いではないが。
蛇口は己の力が発揮される先について、選り好みをしない。
老若男女関係なく、手を翳すだけで自動給水になるものだと力も要らない。
人工的な存在なのに、ある意味では太陽の光と同じ全方向の天意を発揮している。
だからこそ行き渡るのだと、蛇口の役割に感じた普く通じる天意からの愛に感謝した。
隅々まで行き渡らせる時。
そこに派手さや特別感は必要ないのだ。