《荒か好かと》
高温と豪雨と強風と各種イベントと夏季休暇を盛り合わせた、賑やかな状態となっている不覚社会。
それにしてもこうヒョイヒョイ現れるものだったかと台風に興味が湧き、ここ30年程の統計を眺めてみた。
時期としては7月から10月辺りまでを台風シーズンと呼ぶらしい。
と言うことは8月半ばは台風シーズンの真っただ中。
この先には秋雨前線とのコラボもあるし、盛り上がり出した所で興味を持つことが出来た。
これも何かの機会と感謝して、10月まで観察してみようと決めて、ふと気づいた。
高温豪雨強風高波エトセトラ。
乾いてても湿ってても、暑くても寒くても、各種ニュースを観ていると、そこに示されているのはどれも大体注意喚起である。
荒天つまり荒れた天気に用心する目的で情報を提供している。
音だけ同じ「こうてん」の好天だと意味が真逆となり、荒れてない天気、つまり穏やかで過ごし易く明るく晴れた、人々が日中活動するのに好ましい天気を意味する。
これらをまとめると人は荒れを好まない。
はずなのだ。
それなのに「台風の目」と言う表現を使う時、そこに荒れを疎んじる気配がないのは何故なのか。
「今大会で台風の目となる選手」
スポーツに関するニュースでこう書いてあったら、その大会にドラマ性が増すことを想像してワクワクする人も多いんじゃないだろうか。
観客として結果がどうなろうと痛くも痒くもない立場なら、荒れも好ましく映ると言うエゴあるあるだろうか。
だが大会や各選手の関係者であっても、台風の目となる選手やその選手を中心に起こる派手な動きについて、嫌ったり消滅を望んだりはしないんじゃないだろうか。
一体何故なんだと首を捻っていて、リアル台風と台風の目になる人物それぞれの違いについて不覚社会が返しそうな答が浮かんだ。
「スポーツは人間の作り出した人間による行いで、勝敗含め「良い」ことも「悪い」ことも程度が決まっている。
だから、命を守る行動を取らなくてはいけない本物の台風とは捉え方が違って当たり前だ」
それなら何故、その危険極まりない台風に一個人を例えたりするのか。
「そう言えば野球だとぶっつけてしまうのを死球、二死満塁とか打席から塁に出ずに終わるアウトも死で表したりするなぁ」
と、勝負の世界では危機感強めの表現が好まれることが浮かんだ。
台風も守護神などと同じく人知を超えた強さ、更には流れに乗って勢いのある様子を表すものとして例えに使われたのかも知れない。
台風そのものを人間は嫌っていない。
台風が来たことによって結果として起こるかも知れないことを嫌っているのだ。
荒か好かと天を評する目を一旦解いて台風そのものをシンプルに観てみると、回転するエネルギー。それだけと分かる。
こうした勢いを増す自然の力を、世に適したものとして受け取り活かせる様になったら、多くのことが丸っと変わる。
だが、意識がエゴを保持したままでそれを求めても叶わないし、相当危険な反動のある試みとなる。
か細い手綱を付けて、龍を飼おうとする様なことだからである。
手に負えぬ、全の力。
(2023/8/14)