《花と恥》
恥の感覚に振り回されるのも、覚めない間だけ人類に可能となった期間限定の遊戯と言えるかも知れない。
先週記事でこの様に申し上げた。
だが、恥には知らず知らずのうちに振り回されるのとは違った、承知の上でそれを使って遊べる遊戯性もあったりする。
「恥で遊ぶ?そんなことする訳ないじゃないですか!」
恥を真面目に、と言うか深刻に捉えて来た方はそう思われるかも知れない。
しかし実際の所、人類は大分長いこと恥を使って遊んでも来た。
以前の記事にも出て来た、可愛い感じに収まる恥がこれに当たる。
例えば、人は何かについてその魅力を称える時にも恥を持ち出す。
花も恥じらうなどは、分かり易い表現で、これはうら若く美しい女性を形容する言葉だそうだ。
花そのものが期間限定で咲くもので、新鮮さを注目される存在。
そして色や形が美しいか、香りが好ましいかどうかに花の人気は左右される。
そんな花が、恥じらってしまう程の新鮮さと美しさと言う意味を持たせて人を褒める。
こうした入り組んだやり方を、人間はよく採用する。
ストレートに「若くてキレイだね!」と言うより、賢そうに見えるからだろうか。
馬鹿と鋏は使いよう、と言うのと同じに恥も使いようなのかも知れない。
とは言え、花に対して新鮮さを重視するのも、色形香を評価するのも、人側の動きである。
そして「恥じらう」と言う、人間みたいな動きをイメージ上で花にさせてみるのも、人の側からの発想。
実際に花が恥を感じるかどうか、それも人間と同じ評価基準で感じるかどうかは、とんと分からないのだ。
ところで花も恥じらうの花は、何故恥じらっているのだろうか。
自らを若く美しいと思っていた花自身より、ずっと若く美しい人が現れたからだろうか。
それとも相手に見とれてしまって恥ずかしいのだろうか。
後者なら恥より照れの方が強い気がするが、何だかその両方「おみそれしました」と「ポ~っとなっちゃう」が混ざった賛辞であるように感じる。
人はこうした他種の“擬人化”をよく行う。
対象の特性を理解せず、その為の観察も行わず、見たいものを、見たいように、映し出す。
そんな感じで行う擬人化であれば、それこそ「恥ずかしげもなく」なのではないだろうか。
花も恥じらうは大抵、素敵な表現として人の間で使われる。
現時点では人間による言いたい放題状態だが、動物の言葉を翻訳するなんて機械もあるし、他種の意識を翻訳する方法の開発は進むだろう。
人類は基本、知りたがりだからである。
花の前でうら若き乙女を指さして、キミが恥じらっちゃうくらいだよねと言ったら、
「え!この人キレイなの?」
と、返されて衝撃を受けたり。
何ですって!
その時初めて、美と感じる基準はその種ごとに違っていることも理解される様になるのだろうか。
そうした時代がどんなタイミングで訪れるかは分からない。
人間が「嬉し恥ずかしってそういや変な言葉だなぁ」と、自然に気づく辺りかも知れない。
恥遊びも次第に卒業。
(2024/4/4)