《良と羊》
養について理解を深めることは重要なので、なるたけじっくりと読み解くことになった。
養の字の成り立ちを調べてみると、
良い肉を食べて養生する様子を表す文字
だと書いてある資料を発見。
「良い肉?」
ってどんな肉?
と、首を捻ったが字の上部分は羊でありこれが「良い」、下にある食の部分が「食べること」「食べるもの」を指すそうなので、どうやら羊の肉らしい。
羊が何で良いのかと言えば、古代では羊は神聖な儀式や裁判に使われていたからだそうだ。
縁起物を頂くことで、栄養とする。
何だか御利益を期待する雰囲気が出て来た。
裁判の方は一旦置いておいて、神聖な儀式を行うにあたり、羊はどう言う時に捧げものとなるかに意識を向けてみたら2つ浮かんで来た。
1つは、何かを祈願する時。
狩りで獲物が手に入ること、豊漁や豊作、その為に望ましい降雨や日照。
それらを期待し、御利益を得る為に捧げる。
敬って頭を下げる雰囲気を取り外してみると、釣りをする時に針に餌をつけるのも、同じ動きであることに気づいた。
良い悪いではなく、欲しいものを手に入れる時の方法として、人はこうした動きをする。
羊を捧げる機会のもう1つは、何かに御礼する時である。
与えられたものに対する返礼として捧げる。
2つに分けたが、覚めないままで世の人が言ったり行ったりして表現する“感謝”には、次への祈願も含まれている場合が多い。
ありがとうございます〜次も何とぞ
と、契約の手付金みたいなものとして“感謝の品”を送ろうとする。
不作や不漁とされる年も、
ありがとうございます〜次こそはもっと
の気持ちと期待を込めて儀式を通じて“感謝の印”を捧げる。
捧げて返って来たものを頂いて養われる
これを繰り返しながら長年人類は過ごして来た。
儀式を離れて、裁判の方に目を向けてみる。
羊はどんな役割をしていたのだろうかと調べると、面白いことが書かれていた。
相対する両者が持ち寄った神の使いとしての羊同士を闘わせて、勝った羊を用意した方が正しいとする裁判が、古代中国で行われていたと言う。
「力で判定?」
中々にワイルドな採決方法だが、神事としての相撲のことがふと浮かんだ。
吉凶や善悪を判定し、人が“真実”と呼ぶものを探り出そうとする試みの一種として行われたのだろう。
闘犬や闘鶏、闘牛に闘蟋。人間は様々な生き物同士を闘わせてそれを眺めて来た。
同じ様に闘羊も、現在においても行われている。
けしかけて角と角をぶつけ合わせ、一方が倒れるか逃げるかすることで勝敗が決するそうだ。
これからは続けるのが難しくなりそうな内容である。
人であるかどうかに関わらずそれぞれの自由意志の発揮が基本であるのが、只今勢いを増し続けている全体一つの流れ。
その中で、神聖を掲げたとして結局は人間の事情で、人以外の生き物を無理に闘わせたり競わせたりすることも出来にくくなっている。
神事によって馬が亡くなるなどして、次回からの時期や内容の変更を余儀なくされると言った出来事は、その表れである。
話を羊に戻すと、裁判に用いる場合の神羊も真実を知る為の捧げもの、と見ることも出来る。
良いと捧げは人々の中で密接に結びついている。
自宅用より贈答用を上等にするのに似ている。
捧げる程の「良い」肉をどう食べるのか。
食べるって何なのか。
次回はそれについて、書かせて頂く。
目を養う時、与えて貰う?
(2023/9/14)