《良いも悪いも》
先行き不透明な世の中に不安を抱き、どうにかして一抜けしようと藻掻いたり、寄り集まったり。
もしくは、知らぬ振りでうずくまったり。
何かと賑やかな不覚社会の動きは、その時々の状況に応じて変わる「良いか悪いか」の判断に支えられている。
ご承知の通り良いか悪いかの判断は、幾らでも引っくり返る。
変わらないのはそこに全体一つの愛があるかないか、それだけだ。
これで良かったのか悪かったのか、そう迷う時、正解はないので好きなだけ迷うことが可能となる。
行く道が二手に分かれた時、全体への愛があるかないかに意識を向けて、すんなりと
「ああ、こちらか」
となったり、多少揺れても
「う~ん…決めた、こっちで!」
と、踏ん切りがついて行動に移せる人は、愛について感覚的に分かり始めている。
「愛?え~っと…、愛?!ちょっと待ってよく分からないんだけど!」
となる人も、世の中にはいる。
そりゃそうだ。だてに覚めないでいる訳ではない。
そうした人はまず先に、分からなくても愛で進むと決める必要がある。
そこから巡って来た機会を「何だか分からないがいっちょやってみるか」と、幾つも実行して行くうちに「あれ?」と、虚空との呼応を感じる瞬間が生まれる。
愛について感覚的に分かり始めている人も、その「あれ?」を経て感覚が磨かれた結果、そうなっているのだ。
「愛ね、大事ですよね。でもちょっと今疲れてて…」
とか
「今までずっとそうして来ましたが?報われないままに!」
と、なるならその人は愛のことを、犠牲や損であると認識している。
キリストの磔刑や、施しを求める人に食べてもらおうとした兎(釈迦の前世)の話などを、身を捧げる犠牲の美みたいに捉えている人は、愛と言えばこんな感じとイメージが固まっていることがある。
だが物理次元は、一部を十字架にセットして全体が栄えるような仕組みにはなっていない。
理想とする献身を真似てみても、犠牲として身を投じる自分に陶酔しているなら、それは弥栄と何の関係があるだろうか。
愛は意識の上で、まず全体へ向けるもの。
向けた結果、特定の相手など部分に対して、行動が発揮されることになる。
最初にあるのが自分可愛さであるなら、それは結局自分にとって
都合が良いか悪いか
になって来るので答は出ないし、一旦は決められても「ホントはどうだったの?」などと、簡単に覆る。
それも体験の一つなので悪いことではない。
良いことでもないのと同じに。
只、愛を分からないまま体験の焼き直し、その繰り返しが先細りしつつ重ねられるだけなのだ。
良いも悪いもない世界。
(2024/9/23)