《自分優先?》
前回記事の最後に、「それを支えているのは?」と書かせて頂いたが、支えているのは勿論伴侶である御神体。
分割意識だけで、何かを体験することは出来ない。
その時その時で、可能な限り御神体にとって自然な方を選択することは意識の重要な役割なのだが、
「自分優先にするなんて出来ない!」
として、意識がそれを控えることがある。
ところが控える態度を丁寧に観察してみると、何とそれがまさに自分優先状態になっている。
例えば、
手に余る量の仕事を抱え込んでいるが、どうにか自分でやり遂げなければならないと意識が決めている時。
誰か特定の端末の都合を優先しなければならない、だから自分のことは後回しだと意識が決めている時。
他の端末に、自分の代役を依頼することなど出来ないと意識が決めている時。
そこには自・分割意識と言う「自分」が、
出来ない人だと思われたくない
勝手な人だと思われたくない
裏切り者だと思われたくない
恥ずかしい思いをしたくない
情けない思いをしたくない
と言う、様々な思いを拒否する都合が優先されている。
「良い人と思われたい」「嫌な思いをしたくない」ことが分割意識の都合なのか、御神体の都合なのかは上記の通り明らか。
だが、こう言う時だけ「我々夫婦は一心同体!」と、御神体からの静かなメッセージを搔き消す勢いで意識が宣言を叫んで、それでいて勝手に「大変だ~」「きついよ~」と嘆いている。
それぞれの選択なので自由ではあるが、段々と宣言をする勢いも弱くなって行く。
御神体が疲弊し消耗すれば、意識が好き放題をする燃料に使って来た気力も同時に干上がって来るからである。
干上がって様々なことが思う様に運ばなくなり、御神体の動きも思う様に行かなくなって、分割意識がすることは二手に分かれる。
嘆くか。
気づくか。
嘆くのを止めましたと手を合わせて形ばかりの反省をしても、
「許された証として新たな気力が天から送られて来たりしないかな」
と内心で期待するだけなら、「来ない~!」と嘆くことになるだろう。
献身も懸命も犠牲も、それを望むのは意識だろうか御神体だろうか。
分離の気力に限りあり。
(2024/7/11)