《自他自他言っても》
御神体とのコミュニケーションが自然に取れているかどうかと言う点は、本来は何をするにしても基本となる。
確かに不覚体験を積むにあたって、分割意識が御神体の存在を都合のいい時だけ思い出し、後は好き放題する状態が一時求められては来た。
虚空がそれをやってみたかったから。
だがそれも終わり、只今は御神体と和合する時代に入っている。
既に申し上げた通り、それは時が来ればその時点で全員に配られるなんてものではない。
するしないは、端末ごとに自由に選択出来るようになっている。
誰かや何か、虚空が自動的にその様にさせてくれるなんてことはない。
それぞれの自由意志で成すのが和合、そして御神体はとっくに入り口に立っている。
分割意識が未練だらけの自室から出て来ないだけである。
お気に入りの美学コレクション。
慣れ親しんだこの世を生き抜く為の武器。
誰にも見せたくない弱み。
いつからあるのか分からない謎の置物、代々受け継がれて来た癖がこれにあたる。
こうしたものが集まる住み慣れたスペースから画面越しに外の世界を眺め、たまに御神体のことも思い出す分割意識。
何でもない時に思い出すことは稀で、どこそこが痛いとか風邪気味だとか、何かしらの不調を切っ掛けに思い出すことが殆ど。
痛みや気持ち悪さは意識も共有するので、好き放題が出来なくなるからである。
その状態になって初めて、「無理させたな」とか「大事にしなきゃな」と思ったりする。
そして回復した後、何でか多くの分割意識はまた同じことを繰り返す。
御神体の不調は意識の活動にも影響するし、御神体の存続が危ぶまれれば当然、意識のスペースの存続も立ち行かなくなると言うのに。
2024になっても繰り返しているのが実に不思議で、改めてその謎に意識を向けてみた。
コミュニケーションは対話と表現することも出来る。
対話と言うのは、当たり前に交互に行われるものである。
御神体からのメッセージは、穏やかでごく小さな“声”なので集中して聴く必要がある。
このことも以前から、繰り返し申し上げている。
だが、その場では分かりましたとなった人も、時が経つと忘れてしまう。
「こんなにシンプルなことなのに?」
腕組みして首を傾げて、「あ」と気づいた。
外があまりにも賑やかだからだ。
そして内と外は通じている。
分割意識のお気に入りコレクションと、外の賑やかさは反響し合っている。
分割意識の籠もる「自」室の、お気に入りに反応して「あなたへのおすすめ」や「もしかして」の様に次々と外に立ち現れて来る賑やかな「他」。
自他自他自他自他自他の対話。
この喧しさが続いていれば、御神体の“声”は搔き消されもするだろう。
そしてまた、面白い気づきが来た。
それについては次週書かせて頂くことにする。
自他自他言っても、その元は?
(2024/7/4)