《羊と牛》
「…違いって何だろう?」
前回記事を書かせて頂いた後に、減るばかりの動きは養いではなく犠牲なのだと気づいた。
牛と義を足す、犠。
義は「格好良い、筋の良い羊」を表す漢字だそうで、大きいことは良いことだとする美の字の成り立ちにとても似ている。
羊に、「折り目正しい」の意味で我を足して、義となる。
「やあやあ我こそは」の主張があると、「やあやあ我の折り目こそは正しき折り目なり」の言い分も出て来る。
あっちからもそっちからもと各自で折り始めて、一体どんな正しさが実現するのか見当もつかない。
筋の良い羊ってどんなものなのか。
血筋が良い、と言うことで優秀な血統を受け継ぐ羊だろうか。
才能や素質があることが感じられると、筋が良いと褒めたりするので、そうしたものがあるのが筋の良い羊なのだろうか。
羊の才能って何だろう。
今一つはっきりしないが、筋の良い羊が転じて筋の良いことや筋道となり、「正しい筋道」「正しい意味」を示すことになった義。
興味深いのが、それ以外に「仮の」と言う意味もあることだ。
人間の見なす「正しい」は状況に応じて変わる。それが、義に仮と言う意味が生じることに表れている。
それにしても犠の字に見られる、筋の良い羊に生贄の牛を足す意味って何だろうか。
ラムとビーフの欲張りプレートにライスを添えて、みたいになっている。
「と言うか、羊と牛の…」
で、冒頭の問いとなった訳である。
義を以て自分の都合を優先させる為に誰かや何かに犠牲を求める動き。
これは自然と言えるだろうか。
我が身を犠牲にしようとすることも、それを犠牲だと思っているなら、自己の都合を優先させている。
尊い犠牲と言う表現がある様に、犠牲と尊さをセットにする見方にも人間は慣れ親しんでいる。
尊い自己像を釣り上げて手に入れる為の餌として、犠牲を払う人も居るのだ。
御神体を付き合わせて行う、意識による自己像盛り上げゲーム。
これも自然と言えるだろうか。
牛と羊の字を、意識の中で裏返したり回転させたりお手玉みたいに放り投げたりしていて、「!」と気づいた。
何てシンプルで、面白いことだろう。
羊の字は左右対称、牛の字はそうではない。
左にも右にも偏らない、傾きのない中立さのあることが羊と言う字に象徴されている。
生き物としての羊は牛と同じ様に飼育され、売り買いもされる。
生贄にもなるし、闘わせて裁判や賭け事に使われたりもする。
家畜の一種としてだけで羊を捉えて、牛とごっちゃにして扱うことは簡単だ。
だが、養や美について理解する時に、羊の字に表れる中立を無視することは出来ない。
それにしても中立さと我のコラボである義とは、何と不可思議で味わい深い文字だろうか。
そして、どれ程中立にしたとて横から牛に引かせれば傾いて、我田引水の動きとなる。
これを教えてくれる犠も、実に味わい深い文字だと言える。
羊乗せ、牛に引かせて、何処参り?
(2023/9/21)