《箱暮らし?》
前回申し上げた通り、本日記事では凹凸の凹について書かせて頂く。
凹と凸には共通する、基本になる漢字があると言う。それは、
凵
カンと読み、これは窪む様子を表す漢字であるそうだ。
この字の線を太くすればそのまま凹になりそうなものだが、同じでは駄目なのだろうか。
眺めていて「そうか!」と気づいたのが、
中に空洞があると言うこと。
凹であれ凸であれ、中に空がある。
どれだけ歪なかたちに見えても、やはり虚空からの生み成しであることに変わりはないのだ。
味わい深い気づきに感謝しながら、窪の字の中には水を表すさんずいがあることにも気づいた。
水の力で窪んだのか、窪みが出来たから水が溜まったのか。
卵が先か鶏かみたいな話になって来た。
凹凸とか、凸凹とか、表現としてはどちらの順序も有り得る二つの字。
だが、何もないフラットな状態だった所に凸が圧をかけて凹を作った訳ではなく、やはり字としてはまず先に凹があるのだと感じる。
その理由として、一つには両字とも基本にあるのが、凹をそのまま形どったような凵の字であること。
もう一つは、「凹=女性性、凸=男性性」と、それぞれ象徴として見た時に分かる。
0が1を生むと言う、モノコトが物理次元に発生する順序に沿うなら、凹が先であるからだ。
当宮でお伝えして来た基本である、0からの1の生み成し。
その運びが凹と凸にも表れている。
0が1を生む素直な運びの中に、「こうしてくれ」「ああしてくれ」の主張が入って騒々しくなった1が凸なのであれば、凹は0の素直な状態からどう変わったのか。
凹とは何かを知る上で、それはとても重要なポイントとなる。
優しく大らかな人でありたいと自分の中に理想を強く持っている場合も、
何時も人に利用されるばかりでどうせ自分はそういう奴なんだと卑屈になっている場合も、
あの人には全く困ったものだわいつも私に勝手ばかり言ってと不満たらたらになっている場合も、
どんな状態にも共通していることがある。
私ってこう。
あの人はこう。
世間はこう。
こう。こう。こう。
凹を凹たらしめているのは、固定観念なのだ。
固定観念の内容は人によって様々であるし、「そうです、これが私の固定観念です」と世間に表明したりしないし、本人すらその存在に気づいていなかったりする。
それらが凹の気づきにくさを作っている。
凵は字の読みはカンだが、部首としての名前は「うけばこ」と言うそうだ。
立場が凹状態になりがちな人々は、声高に主張するタイプではないが凸と同じくらい拘りが強く、自分で自分を制限する箱に入ってその中で受け答えをしている。
喧しい凸になりがちな人達がその窓口に「ねえねえねえ!」と押しかけるのに閉口したりするが、必要なのは凸にマナーを覚えさせることではなく、入っている箱から出ることだ。
膠着状態の凹凸に関して、凹とは何なのかを答えるなら、それは「固定された意識上の制限で出来た箱」。
凹の中には悲劇のヒーローやヒロイン的な自分像に執着し、近場の人間を呼び込んで凸に仕立て上げる“技巧派”まで居る。
そうした凹凸寸劇を不覚社会で楽しむ人々は多いが、それを千年続けても目が覚めることはないし至福となることもないのだ。
落ち着く箱でも、出てみよう。
(2024/2/22)