《私なき歓び》
天に私覆なく
地に私載なく
日月私照なし
先日引いた御籤の真ん中に「言」として、この礼記からの言葉があり、「そりゃそうだ」と頷いた。
天は、誰に対しても特別な思い入れや肩入れをせずに人々を覆っており、
地も誰に対しても特別な思い入れや肩入れをせずに人々をその上に載せており、
太陽や月も又、誰に対しても特別な思い入れや肩入れをせずに人々を照らしている
と言った意味らしい。
これに繋げて過去の偉大な王達は、この天地や日月と同じ心がけで世界中の人々の為に政治を行ったのだと、礼記では述べられている。
そして、最初の部分だけ取ってまとめた「天に私覆なし」で、この世には完全に公正な善悪の基準が存在する、と言う意味になるのだと言う。
天が私せずに役割を果たす中にあって存在するのは善悪の基準ではなく、全体一つの感覚に合わせて自然か不自然かと言う違いである。
過去の偉大な王達の様な人物でなければ無私は無理とするなら、それは“困った時は代表者頼み”の発想ではないだろうか。
王と言う条件付けを外してみる時、「天に私覆なく 地に私載なく 日月私照なし」は、天地日月と言った自然物と同じ様に人も行動することが出来ると言う、素敵なお知らせとなる。
「こうでなければ」「この相手でなければ」と言った拘りや特別扱いがなく、全体に尽くすと言うこと。
それが出来ないのであれば、王と呼ばれる者でも実際は支配者、独裁者となる。
「天に私覆なく…」の意味の解説を改めて観察すると、どれに対しても「人々を」の言葉が付いている。
だが、天が覆い地が載せて日月が照らすものは当たり前に、人だけに限られていない。
人々の間でのワタクシ合戦が勢いを失い、全体性を回復するにつれて
「人だけじゃないよね!」
と言うことも、よりはっきり見えて来るだろう。
その前に、もう既に「人だけじゃないじゃん」と見えている人々もおり、シンプルで豊かな全一感覚を開く人は次第に増えているのを感じる。
2024時点では、ワタクシ合戦が盛んな場が目立つ。
だがその陰では静かに、ワタクシはわざわざ個別に分かれてみる時に使った目印であり、それ以上でも以下でもないと分かる動きは広がり出している。
人だけではないにせよ、天地日月の活動の中にある存在としては人も勿論その一員。
天地と言う場を用意され、日月に代わる代わる照らされる。
その素晴らしさと、そこで味わえる体験に感謝をする時、私なき歓び、自他の別を超えた歓びが溢れることになる。
私なき歓びは、私を否定して生まれるものではない。
私と言う括りに特に拘らない、そこに存在と役割があるだけで自然と湧き上がって来る歓びなのだ。
特別なき充足。
(2024/5/27)