《独と従》
「結局人間て何がしたいのさ?」
この問いかけから様々な発見が起こり、飽きることなく人生を愛する百歳超えの方々からも、沢山の気づきを頂いている。
彼らは好奇心豊かで、中には知り得た色々な健康法を楽しみながら試してみる方も居られる。
なにかを習ったり、教わったりすることも楽しんだりする。
だがそこにあるのはあくまで楽しみで、
「正解を探さなくっちゃ!」
「優れた先生を探さなくっちゃ!」
と言う、焦りじみたものはまるでない。
彼らは常に、彼らの感覚に沿って自然なモノコトを選択している。
何処かにあるはずの、今の間違いを正してくれる何かを探し求めている訳ではないのだ。
この独自性は、人型生命体本来の役割を果たす上で、欠かすことの出来ないものである。
誰かや何かの従者として、付き従うことで楽園に辿り着こうとするのではなく、自らの感覚でここに在る歓びへの理解を深める。
そしてその自らの感覚には、個人的都合や願望が差し挟まれていない。
無理に自分が望む方へ道を運ぼうとして、拡張工事を試みたりはしない。
だからこそ自然に道が開けているとも言える。
彼らを観察していると、幸福な人生の秘訣になる特別なことをプラスしているのではなく、人生をややこしくする不要なことをしないでいるのを感じる。
余計なことがないのは、先々について計っていないからだろう。
彼らが計るのはあくまで日常に必要な、自らの行いについて。
分かりやすい所で言えば、お金の収支について簡潔かつ明確にしている方が多い気がする。
彼らが注目するのはその時々、どんな出入りがあったか。
あくまでその時その時の「現在」に根ざした記録をする。
こうすれば沢山入るはずの算段とか、いっぱいあったら良いなの夢想とか、あの時こうしていれば良かったのにの反省会とかはないようだ。
彼らの意識は基本、現在から彷徨わない。
この姿勢も彼らの独自性が支えている。
頼れるものに従っていれば安心だと現実から目を背けたりしない、素直な独自性が。
従が何を求めているかは、日本の位階制度が分かりやすく示してくれている。
正一位を最高位としてそこから、従一、正二、従二、正三、従三と、正と従とが交互になる順序。
従は正になることを求め、そして又上を目指せば従がある。
正と従の繰り返しを下って行くと、更に下には大と少で区分けされた初位と言う、新人的な立場がある。
再び一番下から上を見れば、初々しさが消えた時点で、従から正へ、又従へと言う山登りみたいなルートが続いているのが分かる。
頂点には正しき一位があり、その一位も授かりものなので、頂上を制覇した上を見れば天がある、みたいな図になっている。
比べ合い、上に行くことを誉れとして、そうしたゲームに人間は夢中になって来たのだ。
うっかり降格になって、「あれ、従でなくなったら正になった!…てことは?」と、真理に気づくなんて機会はなかったのだろうか。
優劣ゲームの中に居ては、難しいのかも知れない。
こちらの興味は独に向いているが、正と従もそれを求める人々にとっては大切なものなのだろう。
独立あれど、従立はなし。
(2024/8/19)