《狙わない人》
百年を超えても飽きることなく人生を愛する方々の生きる姿を観察してみると、大変面白い共通項があった。
それは、
長寿への憧れや願望が特になかった
点である。
男性でも、女性でも。
既婚でも、未婚でも。
子が居ても居なくても。
何の仕事をしていても。
現時点で知り得る限り、皆さん一様に仰っているのが、
こんなに長く生きるとは思ってもみなかった
と言うこと。
只、一日一日、その日に出来ることを全うして、積み重ねた結果の百年。
長生きを追い求めてはいないが、早死にを希望している訳でもない。
宮司を名乗る“これ”が不覚時代にお目にかかった人々の中に
「あんまり長生きしたくない」
「そんなに長生きしたくない」
と仰る方がたまに居られた。
大体シニカルな笑みを交え冗談めかして言っていたが、そこには「体の自由がきかなくなってまで」の条件付けがあり、当時から奇妙だったものだ。
生きる長さに注文を付ける意味って何なのか。
体の自由がきかなくなることで、生きる意味を見出せなくなる日に思いを馳せる前に、どうして今を思い切り生きないのか。
生きることも、体も、冗談めかせるくらい軽んじているのに、なぜ皮肉な雰囲気を添えるのか。
何をどこに向けて皮肉っているのか。
全くちんぷんかんぷんで、健康の為なら死んでもいい勢いで様々な策を用いる人々と同じ位、矛盾に満ちた存在だったが、奇妙さは感じても興味は湧かなかった。
それどころか「あんまり…」とか「そんなに…」と言われた時点で、その人物に対する興味は著しく減り、お目にかからなくなってからはまるっと消えたことを覚えている。
本日記事を書かせて頂くにあたり、「あぁそんな人も居たっけ」となった次第である。
当時そうして興味を失ったことについては、何の不思議もない。
彼らに、生きることや御神体への愛が感じられなかったからだ。
愛の代わりにそこにあったのは、「不快なことなしに生きたいし、そう出来ないならさっさと終わりたい」と言う、狙い。
狙うことは愛ではないと、振り返って納得出来た。
あの日興味が失せた人々にも又、感謝である。
狙わぬ人の、爽やかさ。
(2024/7/29)
7月のふろくはお休みし、8月に2つご用意します。