《犬と大》
食器、臓器、兵器、花器、器の字は様々な場面で用いられる。
何かが入るだけなら口で事足りる。
器の字の本質は、口の大きさではなく四方にそれぞれ口があることと、その大きさが揃っていることにある。
そんなことを前回申し上げた訳だが、口が揃う真ん中に置かれている「犬」って何だろう?
その問いに意識を向けて調べてみたら、成程となる面白いそしてしみじみと感慨深い発見があった。
本日はそれについて書かせて頂く。
まずは何で犬がセットされているかについて。
調べてみると四つの「口」は、食器臓器兵器花器等ではなく、神への祈りの祝詞を入れる器らしい。
祝詞って書いてあるが「神最高!神感謝!」とかだけで終わってる訳でもなく、要はお願い事が内容に含まれているものだろう。
不覚社会に生きる人にとって神は「何もしなくても居てくれるだけでいい存在」ではなく「自分達が必要とする時に頼れる存在」だからだ。
それらの器に生贄の犬を捧げてお祓いをする字、又はそれらの器は大事なので犬に見張らせる字が器の旧字体「器」なのだと言う。
いずれにしても人都合による設置で、犬が勝手に来て座った訳じゃなさそうだ。
犬の字の右上にあるポチ、「、」は犬の耳を表しているらしい。
大と言う正面から見た人間の姿を表す字の形に「、」を加えて、犬を人と区別するのだそうだ。
それを知った時、植物の中で有用な植物に似ていても「役に立たない」という意味で名前にイヌが付けられているものがあることが閃いた。
「イヌ」の音は「否」に通じ、本物の植物に対してのニセモノといった意味合いが生まれる。
生贄も人柱の様に、人のお願い事を叶える為に人を使う場合もあったが、そうすると人が減るので犬とか他の存在をを代用することが主流。
命を願い事に使っておいて「違う」とか「役に立たない」とか随分だなぁと呆れるが、この位の傲慢さや鈍感さがないと無数の不覚体験をすることは出来なかったのだろう。
人間用でなく犬用にすると言うことで、「麦」に対して「イヌムギ」、「稗」に対して「イヌビエ」と分けたりもするらしい。
「貧乏人は麦を食え」の言葉が流布して民の怒りに繋がった時代もあったそうだが、「犬はイヌムギを食え」も同様な発想なのにこちらについては何も言われない。
イヌサイドからは何も言ってはくれやしないだろうから、人の方で「これは随分だったなぁ」と気づくほかない。
戦後に文字の形を変更した際、器に限らず臭や突など様々な字の中にある「犬」の「、」は取れた。
残った犬もあり、嗅などはそのまま。
腹の奥に隠した都合や魂胆や感情など未消化のものが残る臭い存在として臭には人が、
そうした細かな違いも嗅ぎ分けることが出来る鋭敏な感覚を持つ存在として嗅には犬が、
それぞれあてられているなら味わい深いことである。
漢字への十分な知識がないままに犬も人も一緒にしてしまったのが当用(常用)漢字なのだと、書いている解説もあった。
不覚者から見ればそうした捉え方にもなるのかも知れない。
だが、全体一つの流れが分かっているとこれは進化のひと触れであることは明らかだ。
他を生贄にすることなく自らを四方の中心に置き、
自らと認識する全存在を毎瞬差し出して交流する。
そうした虚空の天意の器となる分神は、常に必要なものを受け取り、愛として全体に振舞うことが出来るのだ。
己の器を観てみよう。
(2024/3/11)