《爪と争い》
一昨日は終戦記念日だったが、ニュース記事の見出しに終戦記念日と言う文字は殆ど見かけなかった。
終戦だけならあったが、5文字に増えると長すぎるのか。
「台風が縦断するからそれどころじゃないよ!」で、ニュースの数も減ったのだろうか。
数年前なら「嵐の終戦記念日」「暴風の中でも祈り捧げる」とでもして、どんな天候でも対応しますよと言った雰囲気も残っていた気がする。
追悼式の規模も流行病への配慮等の理由を立てたりしながら、年々縮小を続けているそうである。
まず記念が薄れて、そこから次第に終戦も薄れるのだろうか。
忘却にも段階があるのかもと興味深く感じ、次いで戦争闘争紛争競争と様々あるが全て争で括られていることに意識が向いた。
終争は、人類史で一度も起きたことがない。
争いがどうやって起こるのかを眺めてみると、敵の不幸を望んで起こるのではないと分かる。
志願者が多い時代には受験戦争と呼ばれた争いも、志望校に受かりたいことから始まる訳で「あいつらを不合格にしてやりたい」からではない。
これは就職や、就職してからの同業他社とのシェア争いでも同じ。
互いを活かす動きになれば切磋琢磨とも表現される、争い。
争って何だ?
と、字の成り立ちを調べてびっくりした。
争は、手と手で物を取り合う様子を表す文字だと言う。
上にある髷みたいな部分が一方の手、その下のヨがもう一方の手、そして亅のかたちが取り合われる物を示しているらしい。
髷部分は元は爫と書き、争の本字は爭となる。
びっくりしたのは爭の爫が、つめかんむりと呼ばれるものであること。
「爪?!」
じゃあ引っ掻いているだけなのかと驚き、直ぐに「成る程なぁ」と納得し感心した。
そりゃそうだ。
形になって、それぞれ分かれて、あれこれ活動する。
その全ては、表で起きている。
表のモノコトを変えようと各人の都合で手を出し合うのは、引っ掻いていることに他ならない。
争いは個々の意識が、己がここに存在した証として残したい爪痕なのだ。
だが、永久に保たれる爪痕はない。
どんなに長く鋭く爪を伸ばしたとしても、裏で手を回して望んだ方に向かわせようと狙っても、その全てが表。
人間が「これは裏だ」と思っている部分も、虚空からすれば浅瀬であり表の中にある。
ふと、「沢山引っ搔いて外に出ようとしているのかな?」と気づいた。
掻きむしっても、我と言う繭が破けることはないのだが、これも人類意識が迎えた一つの変化として観察して行くことにする。
奥に届く爪はなし。
(2023/8/17)