《熨斗つけて?》
「成る程、何とめでたい」
と、先日眺めていて感心したものがある。それは
令和6年のお年玉切手シート。
年賀葉書についている番号の下二桁のうち、3パターンが「当たり」となるアレである。
干支の辰にちなむなら今年は龍のデザインであっただろうが、そうはならず意匠には吉祥文様の一つである
束ね熨斗
が採用された。
これは文字通り、熨斗を何本も重ねたもので、
束ねることで多くの人々から祝福を受けている
意味になるらしい。
人と人との繋がりや絆、長寿を表すおめでたい文様として、我が子の成長を祝い健康を願うお宮参りや、婚礼の花嫁衣裳に用いられたり、古典柄の定番として振袖や留袖、訪問着などにもあしらわれる。
つまり人が暮らしの中で幸福への願いを込めたい時に、非常に使い勝手がいい文様。
それが龍の代わりに使われていて、何がめでたいのですか?
と、当宮の記事も含めて日々訪れる気づきから、中立な感覚を育てて下さっている皆様は不思議に感じられるかも知れない。
何でめでたいのかを申し上げるのは次回に譲り、本日記事ではその前にまず、順を追って熨斗について書かせて頂く。
熨斗には、吉祥を意味しない使われ方がある。
かの有名な言い回し、「熨斗をつける」は喜んで、また進んで物を進呈すると言うかたちをとりながら、中に皮肉の意味を込めて用いることもあるのだ。
あるのだ、と言うよりそちらの使い方が主流である。
調べる中に、
“人に物を差し上げるときなどに、喜んでする。転じて、厄介払いなどを喜んでする。”
の解説を見つけて、「厄介?!」と驚いた。
語源を調べる過程でも、「熨斗」そのものについての解説は
“方形の色紙を細長く、上が広く下の狭い六角形に折り、その中にのしあわび(後に紙で代用)を張り進物に添えるもの”
としながら、そのすぐ後に
“自分に不要な物をもらってくれる人に対して使われることが多い”
と続いていた。
不要な物を進物に?
全く、クレイジーなやり取りである。
久々にエゴのトンチキさ、トンチキ力を目の当たりにした感があり、こうなるともう逆に感心する。
「ワタクシ、要りませんので!」
と自分にとって無価値であることを強く主張する目的で、進物に手間をかけて礼を尽くす為に添えるものであるはずの熨斗を使う。
こうした奇妙な行いを大真面目にやって来たのが、エゴを使った人類の歴史である。
束ね熨斗にも、欲張り祝福ボリュームセットみたいな大盛り感がある。
吉祥文様の雅さを好むと言うのは、人が持つ趣味の中でも上品とされるものではないだろうか。
そこにぴったりと添うかたちで「祝福どっさりとったど~!」と束ねたものを見せる、獲得の興奮があるなら上品と下品は生地の表裏。
分かつことは出来ぬと分かり、これもまた味わい深いことである。
祝福に上下なし。
(2024/2/8)