《煙燻れば》
100歳を超えて、人生を楽しんでいる方々のインタビュー動画を楽しく眺めていた時のこと。
一人目、二人目、三人目と順に観て、
「あれ?似たことを仰っている」
と、気づいた部分があった。それは
くよくよしない
と言うこと。
そこで、ふと興味が湧いた。
「くよくよの、くよって何だ?」
意味を調べてみると、
いつまでも気にかけて、あれこれと思い悩むさま。
と書いてあった。
「くよくよと心配する」と使ったり、単に「くよくよするな」と表現したり。
だが、どんな字を当てるのかはそこに書いてなかった。
更に調べると、くよくよの語源に幾つかの説を発見。
煙が揺れながら立ちのぼる姿を表現する「燻燻」の音から来ていると言う説。
悔いが残ることから、「悔悔」が元であると言う説。
だとすれば何の拍子に、ゆがよに変わったのだろうか。
謎は残るが、燻らすのには本体が燃えず残っていることが必要になる。
悔いるのも、「あの時ああしていれば」等の思いを残していなければ出来ないことである。
それらをしないと言うことは、思いを残さないこと。
完全燃焼した満足感で、後悔がない場合もあるだろう。
課題や感情など例え何か残るものがあったとして、そこに対して「思う」と言う動きを発動させないと、意識的に決めている場合もある。
くよくよせずに生きる人々は意識を今に置くことを、自然と身につけている。
くよくよを長々と燻らす人には、その煙をどこかに届けて、自分の思いの丈を嗅がせたい気持ちがないだろうか。
くよくよしない方々は、己の要望を誰かや何かに訴えかけることをしない人と言える。
そこに時間を使うのではなく、より今を充実させることに力を注ぐ。
そうして人生を楽しむ人々は、100年生きようが生きまいがどの方も、覚める覚めないは置いておいて、ある種達観した今の達人である。
100歳を超えて、人生を楽しんでいる方々のお一人についてはこの春、その日常がドキュメンタリー映画にもなられるそうだ。
今の達人へ向けた人々の興味が、どんな流れを生むのかを楽しみに観察している。
煙燻れば霞むのみ。
(2025/2/13)