《満を望みて?》
明日は十五夜。中秋の名月とも呼ばれたりする。
空で満ちたり欠けたりと見えるかたちを変え続けている月から、人類は何を気づき、学んで来たのか。
詠まれた季節は新暦で言うと11月になり、ちょっと先だが、こんな歌もあったなぁと記憶が蘇った。
“この世をば わが世とぞ思ふ 望月の虧たることも なしと思へば”
詠んだのは平安時代の公卿、藤原道長であると言われている。
本人ではなく、その場に居た藤原実質の記録『小右記』に残るこの歌。
意味としては「この世は 我が為にある様なものだ 望月(=満月)の様に 何も欠けるものはない」と言った感じである。
権勢を誇り調子乗りMAXな雰囲気を持つが、只の「やったぜ!」と言う個人的感想として放たれたものではない。
道長はこの歌に対する返歌を、実資に対し求めた。
返歌を作ることを「和する」と言うそうだが、この和によってその通りであると認める、同意することになる。
言葉による一種の儀式であり、和して同ぜずではなく「和したら同!」なスタイル。
現代の様に録画や録音が出来ないので、口に出すことや書き記すことだけが頼りで、その分重みがある。
しかも政治の世界に生きている人々となると尚更である。
この求めに対し実資は、故事を例にあげて根拠とし、道長の歌も同じく優れ過ぎてるから只それをそのまま唱えるのみだぜと、絶賛する姿勢をとって数回吟詠し、返歌を作ることは上手くかわして断っている。
周りの公卿もコーラス隊みたいになって吟詠に加勢したと言うから、アクションを加えたらウエストサイド平安ストーリーみたいなのが作れるんじゃないだろうか。
この世は自分のもの発言に同意する言質を取るとか、それを防ぎつつ断ったことに対してのツッコミも封じるとか、こう言う腹の探り合い罠の掛け合い外し合いみたいなのが、公卿の日常だったのなら中々大変なお仕事だ。
『小右記』に記したのも「俺、言いなりになって返歌作ったりしなかったぜ!」を示す意味合いがあったのかも知れない。
このやり取りに至る前に、似たエピソードがある。
まだ栄華MAX状態に向けて昇っていた段階の時、道長は自分の娘が入内するにあたり調度品の屏風に記す歌を募った。
歌を作る人、それを選ぶ人、屏風に筆入れする人、全員が有力者や第一人者と呼ばれる人々であり、屏風は人の後ろに立てるものだが、後ろ盾とになる位強くしようと和歌と言う体裁で署名を要求したと言える。
法皇や他の公卿から贈られた歌が集まる中で、実資だけは「前例がないから」と、数度にわたる道長の催促も断って結局歌を献じることはしなかったと言われている。
ここからも当時の、口に出すことや書き記すことの重みが感じられる。
「前例がないから」「この故事があるから」の理由付けに、「私個人の気持ちとは別にして」と諍いを避けながら、揺るがないものを盾にとって固く断ると言う、賢い人だったことがうかがえる実資の姿。
「俺の娘の嫁入りにさ、ちょちょっと書いてよ、実ちゃん」なんて気安い言い方はしなかったろうが、そんな要求を数回繰り返せるし、駄目だった後も別の機会に和歌詠んで「今度こそ言質取るどー」となるハートの強さがある道長の姿。
どちらも人間臭くて、大変面白い。
望月の歌を詠んだ時点で、既に道長の権勢には陰りが出ていたので「やったぜ!」ではなく、「俺、満月だよね?完璧だよね?そうだと言って!」と焦燥や不安に精一杯の強がりも加わってこの歌を詠んだのなら、増々人間臭くて面白い。
程なくして道長は病を理由に出家し、あの世での栄華を求めつつ政治的パフォーマンスも兼ねた法成寺の創建に夢中になり、その贅を尽くした豪勢な自宅寺で極楽浄土を願いながらログアウトしている。
賢人実資も晩年は認知症も手伝って色ボケしたそうだし、道長の息子で父よりも割に良識家だったらしい頼通はそれを嘆いたが、こちらも晩年に権力欲に取りつかれたそうである。
権勢も知性も良心も安定せず、満を望みてはその後に欠け行く人の世。
これだけ月の満ち欠けを見ているのに、世の姿を重ねて「満月~!っても欠けてくよね~!」と、嘆くとかなしで素直に腑に落とすのに、まだ足らないと言うのだろうか。
あらゆるものが増えたり減ったりと変化し続ける様でいて、増えるばかりで減ることがないものがある。
体験である。
法成寺も廃寺となって今はなく、道長の墓所もはっきりとしないらしい。
あらゆる記録も、人々の記憶も、ずっと残り続ける保証は何処にもない。
だが、体験したと言う事実は消えない。
道長のでも、誰のものでも。
体験をする為に様々ないのちはかたちを持ち、人型生命体と言ういのちは観察と体験を同時に行う為に、人の姿となったのだ。
どの様な有り方をしても、体験ひとつひとつは、完了した時点で満ちている。
それは欠けることなく進化を続けながら、無限に積まれて行く。
満天に届く、欠けなき体験。
(2023/9/28)
《9月のふろく その1 満ちを捧ぐメモ》
夏の間にそれぞれご成長をなさったかと存じます。
それを現時点でひとつの満月とし、成果をまとめてお書き頂けるメモをこしらえました。
成長の成果と感じるものを、跳ねる兎と月の所にお書き下さい。
まとまったら、「自分の」という見方を手離して、眺めてみます。そこからどんなことが出来るでしょうか。
何かひとつ、成果で可能になったモノコトをご自身以外の存在と分かち合う体験をなさってみて下さい。
知っている人とでも、知らない人とでも、人とで無くても構いません。
その具体的な内容を、空の月に捧げる月見団子の上にお書き頂けます。
旬をお感じになりたい方は、お月見の前か当日に。過ぎたとしても気にせず「してみたい」となった日になさってみて下さい。
完了した体験は、新たな体験へ注がれる力に変化します。
言葉に限らず体験を捧ぐことも満ちへの祝いとなります。
《9月のふろく その2 散るを祝うメモ》
満ちて、溢れ、大きく広がる。
満ちを祝う時にもうひとつの動きも併せて祝う必要があります。
その為に、9月のふろくはふたつになったそうです。
もうひとつとは、散る動きです。
散じてかたちを細かく変えて行くので、ぱっと見には減る動きとして感じられます。
散ることを祝えるメモもこしらえました。
こちらは秋のどの時期になさって頂いても結構です。
世の中を観察して、秋を彩った葉が散る様に時代の移り変わりによって去るもの(人・モノ・価値観・習慣etc)を発見したら、銀杏の輪っかにお書き下さい。
それを濡れ落ち葉の様に湿らすことなく(特定の時代や集団に対して意識による思い入れがあると、そこに関係する何かが去ることについて湿っぽさが出たりします)、中立に観察します。
「これがなければ出来なかった体験がある!」と気づかれたこと等あればそれも合わせて、去るものへの感謝を赤い葉の輪っかに自由にご記入頂き、祝い寿いで消化と昇華をなさってみて下さい。