面白いことである。
“至福の感覚が開かれるにつれて、「満」とは「ギリギリいっぱいの膨満」ではなく「丁度の満ち足り」であることが腑に落ちる様になる。”
と書かせて頂いたことがある。
腹が苦しくなる位の状態を「満腹」と呼ぶ感覚は、身に余る幸せを欲するのに似ている。
もっともっとの膨満時代が終わり、活き活きと動くのに丁度合う量が「満」であることに気づく人がこれから増えて行く。
人間は身に余る幸せと言う表現を、受け取るものより自身の器が小さいと申告する形で、へり下る時に使ったりする。
己を小さく見せることで受け取るものの価値の大きさを示し、一緒に喜びの大きさを示す効果もあるのだろう。
世間では慣例的にこうしたやり取りが多く行われて来た。
ヘリ下り、褒めたたえ、なるべく和やかに、印象良く。
そうした調整の中に紛れて、「身の丈を超える、大きなものが欲しい!」欲もやっぱり埋まっている。
身に余る幸せを求める人々は勲章を集めること、活き活きと動く歓びを求める人々は未知を行くことに意識を向けている。
勲章とは、地位や名誉、賞賛と言った、見返り。
未知を行く中でも、勲章と人が呼ぶ様なものを受け取ることもあるが、それが目的になったりはしない。
必要なのは新しい瞬間、新しい体験であり、勲章は結果の一部でしかないからだ。
未知を行く時、人の器は育つ。
身の丈は余ることなく、丁度の健やかさで新生して行く。
そこに歓びが満ちる。
満(旧字体は滿)は、水を一杯に満たす様子を示す文字であると言われ、氵は水を、㒼は一杯に覆うことを表す。
満員、満額、満席等の言葉がある様に、満は水だけでなく色々なもの、固まっている個別の物にも使うことが出来る。
只、水を一杯に満たすと言う字形に表れている様に、満の本質は流動性にある。
固まったものの中にも流れる力の存在することが、満によって示されているとも言える。
あらゆるものは流動し、点滅している。
月に満ち欠けがある様に、満腹も空腹へと変化するので、そこから又満たすことが出来る。
少ない時、減っている時、常にしょんぼりがっくり不満となるかと言えばそんなこともない。
気持ちよくお腹が減って、さぁ食事にしようかとなる時。
十分動くと自然に減る。
これは、空腹に満足している状態ではないだろうか。
満足は、その瞬間にどれだけ納得しているかにかかっている。
納得し、腑に落ちていれば不満も起こりようがない。
そしてすんなり鮮やかに、更なる新しい状態へと変化出来るのだ。
流れを通し、惜しみなく満たす。
(2023/11/2)