《流動性》
思考することで現実化を促す、なんて話が流行った時代もあった。
だが、世の中の様々な動きを誰にも何にも依らず観察し続けていると、つくづくと
現実化においては思考よりも認識の力が遥かに大きい
ことを実感する。
「ほ~ら思った通り!」
などと言うが、思いは人によって、
「絶対こうする!」
と、シンプルだったり、
「あーでもないこーでもない、そーなって欲しいけど、どーかしら」
と、入り乱れていたりする。
思いながらそこに
「あーやって、だめならこーやって、そーなったら、どーにかこーにか…」
と、考えを巡らすので矢印が沢山、時には途切れ途切れに飛ぶことになる。
そこへ行くと認識は、思い描きをあまり必要としない。
「この人物は、当社の社長である」
これは思考ではなく認識であり、そこに
「いや、待てよ。本当は副社長なのかも、課長って話もあるな、そもそも社長とは何なのか…」
と、やり始めた所で、何の進展もないばかりか正気を疑われるだけだろう。
思考より認識の力が強いことは明白であり、迷いやブレのない方がすんなり実現することに何の不思議もない。
それでも、思考を頼りに願望を達成しようとする人々の中で、己の認識について深く顧みる人がどれだけ居るだろうか。
あまりに近過ぎて、見えなくなっているのかも知れない。
不覚社会を観察していると認識は、意識して柔軟であり続けるか余程の切っ掛けがあって改めることが起きなければ、変わらないようだ。
変更がないまま保存される認識は次第に定着力を増し、やがて固定観念化する。
絵の具や粘土、漆喰、セメントなど、自在に形を変えられるものから水分や油分がなくなって固まるのに似ている。
人々は不覚社会と言う学びの場で、固定観念と言う作品作りに勤しんでいるのか。
覚めてからも歓びや至福に満ちた瞬間と言う“作品”を生み出し味わうことは出来るが、それらは刺激と言う面では魅力が足らないのだろう。
固めたものを使って自他を切り裂く衝撃に興奮するのが不覚ゲームの醍醐味だったのだろうが、日に日にそれも立ち行かなくなっている。
硬水軟水はあっても、固水はない。
固ければそれはもう水ではなく、氷と呼ばれる。
新しさを受け入れる流動性は、柔らかさがないと生まれないのだ。
惜しいものほど流してみよう。
(2024/7/22)