《求々ゲーム》
既に申し上げたこともある様に、只今の流れで日に日に明らかとなっているのが、
自由意志を侵害することが出来にくくなっている
ことと、
御神体に無理をさせることが出来にくくなっている
ことである。
「自由意志?中々通らないですが?」
と言う方は、ご自身以外の方の自由意志を曲げようとしていないか振り返って見られる必要がある。
髪の毛一筋でも「ああしてくれたらなぁ」の期待が挟まっていれば、自らの意志も又、自由なものでなくなる。
自他と言うのはあくまで目印として分かれているのであって、本来そこに質や重要性の違いは無い。
同じであるから他の在り方を歪めようとすれば、自の在り方も歪むことになる。
このことを都合よく端折って、「自他は無いから自で他を操って良い」として来たのは不覚ならではの芸当。
だが、それも支離滅裂な寝言であることが明らかになり、通らなくなっている。
「御神体に無理?そんなこと私は勿論望んでないけど、周囲にさせられていますが?」
と言う方は、御神体ではなく自分の立場や体面を守る為に自らの選択で行っていることを、周囲にさせられていると言い換えていないか確認してみる必要がある。
「自分」と認識する分割意識の判断によって、御神体に付き合って貰ってしていることだと納得出来れば、被害者意識が減る分、気疲れも減る。
そして御神体に感謝をして必要な時に休むことも自然と出来る様になる。
労ってくれ
癒やしてくれ
慰めてくれ
励ましてくれ
救ってくれ
助けてくれ
支えてくれ
養ってくれ
etc。色んなことを人間は求める。
それらを上手くふわっとまとめる感じで
愛してくれ・愛されたい
とも言う。
愛と好の違いが分からない、覚めていない状態ならではの求め訴えと言える。
好きをベースにすれば、先程のetcの上に掲げたことは大体皆叶えるか、叶えようとするのが人間の習性だから、そうされたい相手から人は好かれることを望む。
「愛されたい」
の思いには、何だかいじらしい、可愛らしい印象を受ける人もあるかも知れないし、又その印象を自らに付けようとする人も居るかも知れない。
だが、ぺろりと剥けば
「好かれたい」
が出て来る。
もう1枚ぺろりと剥けば、
「労わわれ・癒やされ・慰められ・励まされ・救われ・助けられ・支えられ・養われ etc
たい」
が出て来る。
ふんわりした印象を取り払って、具体的になったものを眺めて見れば、特にいじらしいものではないんじゃないだろうか。
くれが要求なら、たいは欲求。
求めるばかりの求々ゲームも又、エゴを使う様々な経験を可能にした愛しい試みであるが、もう古いのでまともに機能しなくなっている。
それらに魅力を感じなくなった方は、新しい世界を観察する目が順調に育っている。
求めず動く、晴れやかさ。
(2023/9/25)