《来た役を》
“人の役割”について、丁度意識を向けていた時のこと。
さる有名な俳優が亡くなったと言うニュースと、同じく俳優である彼の息子が語った言葉を目にした。
「演じる役が善人でも悪人でも醜くても、決してひるむことはなかった」
この様に父の仕事を振り返ったと言う。
88年の人生の中で様々な役割を演じ、「ハンガー・ゲーム」と言う作品では、独裁国家の最高権力者を演じたそうだ。
役者はこの様に機会に応じて色々な役をする。
役者でなかったとしても、不覚社会に暮らす人々の中にも「これが自分」と思えるイメージを使ってキャラクターを作り、それを演じる様に生きている部分がある。
意識がキャラクターに肉付けをして、役を膨らませる。
逆に「自分とは何ぞや」を探り、生きる中で“コレジャナイ”を感じたものを除いて、削り出す様にキャラクターを見出すやり方をする場合もある。
いずれにしても自分さんと言うキャラクター作りを主たる目的にすれば、その時々で巡ってきた役割がどんなものであるかと言う、役への理解が薄れる。
「何はなくとも自分さんがどう映えるか」と言うことにピントを合わせていれば、展開する場面でその他の情報はぼやける。
肉付け削り出しのどちらでもなく、巡って来た役目を果たすことを主にして楽しみ、集中する人もいる。
「巡ってくるのを待つのではなく、自分で役を選んじゃいけませんか?」
そう思われる人も居るかも知れない。
役者もオーディションを受けたりする訳で、やってみたいと感じた役を求めることも、いっぺんに出来ない場合は選ぶことも勿論、自由。
だが先に何を意志したかによって、出会う役は違って来る。
自分さんを優れさせたいから、こんな役が欲しいと言うのと、
その役割が全体の中で活きる様に力を尽くしてやり遂げたいと言うのでは、
本当に分かり易く、役の質は変わる。
巡って来た役に集中出来る人は、軽やかに新しい役に移ることも出来る。
思い残しなく、良し悪しの判定もなく、日々新たに力を尽くす。
様々な役に入り続けた俳優の姿から、学べることは多い。
「演じる役が善人でも悪人でも醜くても、決してひるむことはなかった」
これは善悪や美醜を使ったジャッジにとらわれない、人間そのものに対して愛ある見方をする人でなければ、出来ない仕事ではないだろうか。
そう感じていたら、この言葉に続きがあったことを後から知った。
「彼は自分のすることを愛し、愛することをやってきた。これ以上は望めない」
以前から、意地悪や乱暴、冷酷、傲慢、差別的などの特徴を持つ役を演じる俳優の中に、実際にはその真逆の性質で世の中的には“好人物”とされる人々が居ることに気づき注目していた。
観察してみると、よく見られようとして無理に整えていると言った感じではない。
演者の人としての器の大きさが、世の中にあれば避けられる様な役をも、こなすことを可能にしている。
そうした人々については好人物と言うより、大人物と表現する方が当たっているかも知れない。
やり切ることでその役を昇華する。
そうすることで人類は無数の体験を経て来た。
そして「誰でもない」と言う所に達しつつある。
来た役を、愛する。
(2024/6/24)