《束ねの本質》
先だってより記事に書かせて頂いているお年玉記念切手のシートにある束ね熨斗。
そこに描かれている、流動する状態となった様々な色の熨斗を束ねているものとは何か。
まずその色に着目して「あぁ、成程」と直ぐに気づき感心したのが、
金であること
だった。
デザインをする上で金は銀や銅と同じく、金属の持つ光沢の表現を求められることが多い。
「これが金色です!」
としても、光沢がなければ黄と茶の間を明るくしたり暗くしたり調節しながらグルグル移動して適当な所に落ち着ける、と言う変な動きをする他ない。
切手シートの金も放っとけば濃い目のベージュ、それが全面に淡い光沢があるので「金」と感じられる。
つまり金色と言う表現はあるものの、厳密には金とは色ではない。
色と光、両方あって初めて表現可能になるものである。
この「色ではない色」、光を要すると言う意味では「色を超越したもの」である金で表された束ねの姿。
面白いのが、手で握っている様なかたちをした束ね部分には、上と下に段々の凸凹はあっても、何重にも巻かれた紐と紐とを区切る線が描かれていない所である。
まるで、そこだけぽっかりと空いて「無」であるかの様に。
「無が、束ねている…?」
そこで、ハッと気づいた。
束の字は、 木を紐で縛ってまとめる様子を表わす文字だと言う。
分解すると
木+口
となり、口が紐で縛ることを表わす。
その中は、空洞。
空っぽにしていなければ束ねられない。
そんなの当たり前じゃないですかとなられるかも知れないが、世間で何かを束ねようとしている人々、ことに人を束ねまとめようとしている人の内側って、空っぽだろうか?
束ねようとしている人の都合をそこに挟んでいないだろうか。
紐は物の形に合わせて自在に曲がる。
紐の形に合わせて物が歪んだりはしない。
束縛とか言ったりするが、人の都合で人の行動を制限しようとする行いは、束ねの本質から外れるのだ。
そのことをまるで空間にぽっかり空いた穴の様な、金の束ねは気づかせてくれる。
金の束ねは、空間に表現される虚空の意志を象徴している。
更に、目を覚ますことで虚空と自らは本質的に同じであると分かった状態の、分割意識のことも表している。
そしてシート全体を縁取る四角。
これも又、金でありこれは物理次元の何処まで行っても全母たる虚空の愛の中であることを象徴している。
そして更に、虚空と本質的に同じであるもう一つの存在、分割意識の伴侶となる御神体のことも表している。
御神体と共に在るからこそ、分割意識は様々な流れを祝福することも体験を歓ぶことも出来るのだ。
幾つもの意味を重ね束ねた、見事な祝福の姿を見せて頂いたことに感謝して、切手シートの話はこれにてまとめとする。
束縛、束じゃないなら何?
(2024/2/15)