《木と独立》
前回記事を書かせて頂いた後すぐに、ひょんな切っ掛けで外出することになった。
到着した場所は緑深い山の奥、ではなく作られてから百年以上経つ都心の公園で、噴水やら銅像やらある。
公園の完成と時期を同じくして創業したレストランの脇には大きな木があり、それを眺めていた時にはっと気づいた。
一本で完成している。
森の中であれば、周囲に同種や異種を問わず様々な木が立っている。
そうした風景を見る時、世間で言われる「人は一人じゃ生きられない」と同じく、木も支え合って生きるのが基本な存在であるかの様に映りはしないだろうか。
だが一本きりで立っていても、木は弱ったりしていない。
すくすく伸びて大きく育ち、周囲に人がまばらだろうと溢れ返っていようと気にすることなく、ゆったりと今この瞬間を味わって生きている。
一本きりの木は、周囲との交流を拒否している訳ではない。
ちっちゃな実を大きく育てる為に、只今は日差しを浴びて栄養を作る時期の様子。
やがて熟した実が地に落ちれば、その何百何千何万と言う中の幾つかは、芽吹いて同種の木に育つのかも知れない。
育っても育たなくても、
この木に対して一本で可哀想だと言う人は、居ないんじゃないだろうか。
レストランのテラス席で午後のお茶や、ワイングラスを傾けるひと時を愉しんでいる人達も、木をそうした風に見てはいない様子だった。
様々な場所で、一本きりで立つ木をゆっくり眺める機会があれば是非、木のしている時間と空間の味わい方を感じてみて頂きたい。
孤独と独立は違うことを、木はその生きる姿で教えてくれるのだ。