《敬は限定?》
本日は敬老の日。
お年寄りと呼ばれる人々に感謝して贈り物をしようとか、この日には何かと老が注目される。
では、もう一つの方は?
そんな訳で本日記事では、敬とは何かについて意識を向けてみる。
「敬」の字の成り立ちに関しては諸説あるが、共通しているのは神に祈りを捧げている様子を表した字であること。
そこから、「うやまう」「つつしむ」の意味が生まれた。
覚めない人々は神に対してフラットな目線を持たないので、信仰の対象に向かう時、祈る側はひれふす形をとることが多い。
己がどんなポーズをとっているのかが重要になって、対象が何なのかはろくに見えないのではと言う気もする。
畏敬と表現する様に、見るのを畏れる気持ちもあるかも知れない。
神の怒りに触れることへの恐怖も人間にはあるし、目上の人に怒られると言うのも、不覚社会でよくある場面。
神と目上に共通するのは「既に何らかの基準を持っている」とされる点である。
神基準に合わない、目上基準に合わないとして、手直しを求められるのが信仰者や目下の側。
ここでまた敬老、と老を足して二字を眺めてみた。
ここ十数年で国内外問わず、古い基準についての印象が変化した。
役立たなくなって来た、実は合理的でなかった、矛盾や不備が沢山あったと感じる人が増えて来ている。
技術革新と、それを使いこなして恩恵を受ける為の方法も日ごとに変化する。
進歩に付いて行けなくなる、頭の冴えも含めた体力や、気力が追い付かなくなる目上について、目下はどう扱っていいか分からなくなっている様にも見える。
敬うには、あまりにも学び得る益がなく、
敬うには、あまりにも恐れるに足らぬ。
同情心だけで労われと言われる方がまだ分かる、敬う為の判断材料が少な過ぎると、困惑する人々が現れても別に不思議はない。
神仏への敬いにしたって、変化しつつある現代である。
神とも思って敬えと、同じ人間に求められれば、それは意味も分からなくなるだろう。
これは別段悪いことではない。
良いことでもないのと同じに、全体一つの流れに沿った、単なる自然な変化である。
敬を向ける先は神や目上に限りませんよと言う、実に真っ当なお知らせにもなっている。
敬意は、相手の中に神を観ることで生まれる。
だから敬老の反対に、敬若があっても不思議はないのだ。
若さはそれ自体眩しいものなのだから、老いに対してはせめて敬をくれよとなる人も居るかも知れない。
敬は、そうした残念賞みたいなものではない。
あらゆるものに神を観る、神性を感じる時に、敬の持つ真の意味を理解し実感することが出来る。
たまたま9月のこの日は老への敬をピックアップ、と言うならそれもまた敬を理解する一つの切っ掛けになるだろう。
本日が終わったら気が向かれた時に老以外、神や目上以外への敬にも意識を向けてみて頂くことをお勧めする。
閉じ込めぬ時、輝くもの。
(2024/9/16)