《捨てたもの?》
各自の都合や事情で、忙しく回り続ける不覚社会。
それを観て、そう言えば奇妙だと気づくことが様々ある。
良い意味で使われているフレーズにも、随分と風変わりなものが存在する。
旧い価値観や感覚に支えられて来たものが、あっちでもこっちでも崩れて、
「それって変だよね?」
の声も上がりやすくなっている、今日この頃。
流石にもう使われていないかも知れないと、忘れかけていた言い回しを、先日読んでいた新聞の中に発見した。
「まだあった!」
と、少々驚いて眺めたのは、
〇〇も、捨てたものではない
と言うフレーズである。
捨てることが出来る、と言うことは、持っていることになる。
所有していないものを、勝手に捨てることは出来ない。
そんなことをしたら真の持ち主に止められるか、苦情が来るはずだ。
世の中捨てたもんじゃないとか言うのも、実は奇妙な話なのだ。
世の中が持ちもの?
誰の??
読んでいたのは詩人の訃報によせての記事だったが、締めくくりに書かれていたのが、
“現代日本の国民も捨てたものではない”。
の、お言葉だった。
中々に、ダイナミックな持ち方。
現代日本の国民と言うからには、ご自身を含めた総員を意識内で所有し、そこに「捨てる箱」みたいなものも用意しているのだろうか。
それも不思議だが、更に謎は重なる。
この謎多き「捨てたものではない」。
使う時、ちょっと褒めている感じで言われていることが多い。
その裏には、
「普段は捨ててやりたい程、不満なんだからな!」
と言う気持ちが見え隠れする。
褒めながら皮肉る感じで、入り組んでいる。
この世は俺様のもの、ってことでなく、
「みんな〜!捨てたもんじゃないよ」
の呼びかけだとしても、それはそれで謎は残る。
みんなが世の中や国民を捨てる気満々である前提で、このフレーズを使っているのは何故なのか。
あと、世の中や国民って捨てられるものだろうか。
謎が謎を呼び、迷路みたいになっている。
捨てる手を止めることで褒めてやりながら、捨てる可能性をちらつかせて、ちょこちょこ刺す。
この入り組んだ手法は、エゴなくしては出来ない離れ業だ。
中心から思いきり離れている。
こうした意識の分離があるから出来る表現は、覚めた人が増えるにつれて、前時代の奇妙な感覚が生み出したアート作品みたいなものになる。
味わい深さを鑑賞して、楽しめる様になれば面白いことである。
全が全から何捨てる?
(2024/11/25)