《感謝と都合》
「こんな状態で感謝など出来るか!」
苦しみや悲しみを伴う出来事に遭遇して、この様に憤る人に対して、それはそうだよねとなるなら、そうなった人も、憤っている人も、感謝をするかどうかについて何らかの基準を設けている。
幸運には感謝するが不運には感謝しない。
悲劇や苦労にも感謝しない。
それで、不運と言うのはこれこれこうで。
悲劇はこれこれ、苦労はこれこれ。
と前もって内容を決めてあり、これこれの部分はその人ごとに微妙な違いを持つ。
或る人から見たら、苦労にしか思えない内容が、別のある人から見れば楽しくて仕方ないものになっていることもある。
悲劇や不運のイメージは、割と似通っているかも知れない。
どれも物理次元上に起こる出来事の、全体でなく一部であることには変わりない。
ここからここまでのことには感謝するが、その外には感謝しないと言うのは、
「地球の中で、この地域では息するけど、その外では息しない」
そう言っているのと同じ位、実は奇妙なことなのだ。
息しなかったら死んでしまうが、感謝しなくても生きてはいられるじゃないか。
そんな風に思う人も居るかも知れない。
分割意識が感謝をしなくとも、御神体は変わらず常に、今存在していることに感謝をしている。
存在すること自体、虚空からの天意であると同時に、人型生命体から虚空への愛と感謝の表現である。
そこに意識が加わらずに、感謝する役割を御神体に丸投げしていると、意識の分だけ息が足らなくなり、当たり前に生き辛くなる。
只、それだけだ。
感謝は、何かの基準に達したからすると言うものではない。
不覚社会に暮らす人々が大好きな、神社の神籤にもこう書いてある。
“自分に都合がよい時だけ
感謝するのは、本当の感謝ではない。”
こうして神籤に書かれるかたちで言われ始めたのが、どの時期からかは知らないが、昨日今日の話ではないだろう。
元旦、七夕、受験前等々。
色んなタイミングで神籤を引いて、このメッセージも結構な人数がこれまで引き当てて来たはずである。
「何をみて、何をきいて来たんだ」
首を傾げたが、見たいものだけ見て、聴きたいことだけ聴くと言うのも不覚ならではの器用さ。
この神籤からのメッセージも、完全にスルーか、意識の端にちらりと触れても
「ですよね~(立派っぽいから、一応うなずいとこっ)」
程度で片付けられて来たのかも知れない。
結構前から、ちゃんと言ってる。
(2024/10/3)