《感謝と当然》
新世界を柔軟に楽しんで生きるにあたり、感謝はその基本となる。
お行儀が良いことみたいなマナーめいたものではなく、基本とは呼吸の様に不可欠なもの。
呼吸が乱れると息苦しくなるのと同じに、感謝がないと生き辛くなる。
感謝の反対って何だろうか。
調べてみると、それは「当たり前」であると言う説を発見。
驚いた後、すぐに成程となった。
当たり前は、「当然 」の当て字である「当前」を、訓読みにして生まれたと言われている。
意味としては、
「 そうあるべきこと。そうすべきこと。また、そのさま」
があり、更に
「普通のこと。ありふれていること。また、そのさま。並み。ありきたり」
と言う意味もある。
そうあるべきことやそうすべきことは、ありふれている、べき。
そんな感じの見方が、そこにある。
普通のことには感謝しない、と言う発想もそこにある。
感謝する時に使われることの多いフレーズであるのが、「ありがとう」だが、これは有(り)難うと字を当てる。
有ることが難しいと表現するありがとうには、その体験をこの世に二つとない、他には存在し難い素晴らしいものとして昇華出来たことへの感謝と祝福がある。
だが、全ての体験が本来二つとないものであるし、素晴らしいものとして味わわれることに何の不思議もない。
それは普く通じる、素晴らしい、普通のことでもある。
普通のことには感謝しない?
ふと、当たり前の反対に置かれている感謝は、誰かや何かから自分にして貰えることに限定して言われているのではと気づいた。
物理次元が存在することについての感謝、生きているかたちで活動出来ることへの感謝は、そこに含まれていない。
そんなの普通のことだから。
この「○○してくれてありがとう!」と定めない、今在ることについて行う全方位への感謝が、新世界での自然な呼吸となる。
先程あげた当たり前の意味に戻ると、ありふれていて、そうあるべきことだった。
ところが世の中では、感謝についても「感謝すべき」などと言ったりもする。
観察して行くと突っ込み所が満載なのが不覚社会の、賑やかであり矛盾を抱え、間が抜けていて人間臭い部分。
「当たり前のことには感謝をしないルール!?」と驚いた後、すぐにその人間臭い不覚あるあるに気づいて成程となったのだ。
当然の然は、自然の然。
当に然りとなる普通のことに、感謝が生まれるのは、自然なことである。
その自然なことを実感し味わっている時、人生上にどんな出来事が起きようと、生き辛くなりようがない。
当たり前に、感謝する。
(2024/9/30)
9月のふろく《当然感謝発見メモ》
改めて、普段感謝している当たり前のことを発見して、文字にしてお祝いするメモをこしらえました。
散歩をして見つけた、その辺りにあるごくありふれた葉っぱや木の実。
そうしたものを見つけて手に取り美しさに気づくように、普段の生活を振り返り、感謝している普通のことをメモの上に並んだ葉っぱや木の実の中に、お書き頂ける様になっています。
そしてそれらを体験可能にした、今在ることについて全方位の感謝をして、感じたことや分かったことを下の大きな方の雲にお書き頂き、小さな方の雲には感謝の気持ちを表現する行動をお書き頂けます。
黄色い雲にお書きになられたことを実行するかたちで祝福されて、当然感謝発見は完了となります。