《愛と優良》
前回記事の終わりに、「呼びかける時、伝えるものとは」と書かせて頂いた。
人が人に呼びかける時、そこに「相手をこう動かそう」と言った意図が含まれることがある。
このやり方に慣れた人からすれば、
「そんなの誰だって、どんな時だってそうでしょ」
と、なるかも知れない。
だが人の持つ性格は様々であり、決してそうとは限らない。
「どう動こうが相手の自由、望み通りに動かそうだなんて思っちゃいませんよ」
と、驚く人もいる。
含まれることがあると書いた通り、全ての呼びかけに必ず意図が含まれる訳ではない。
更に、意図する内容も、要求の強さも実に様々。
「動かそう」
位の明確なものであったり、
「動いてくれたらいいなぁ」
位の曖昧さがあったり、
「どうせ動いちゃくれないだろうけど」
の打ち消しが付いていたり。
これを沢山の人が絶え間なくやりとりしているので、不覚社会はとても賑やかだ。
「呼びかける時、伝えるものとは」と書いたが、呼びかける時に個人的要望を挟んでいる時、人には届くこともあるかも知れないが、虚空へは届きにくくなる。
只、愛だけを意志すること。
経過や結果に要望を持ち込まないこと。
それだけで、途中に凸凹して見える場面を挟んだとしても、振り返った時に何もかも絶妙だったと拍手したくなる道が開ける。
愛を意志する時に「私は世界を愛しています!」と言った、健気なワタシの横顔を虚空に見せて、いじらしく思わせることを狙う人が居る。
虚空は全母であり、個母の様に「かわいそう」「えらいね」と言った感覚で、子たる分神をいじらしく思ったりはしない。
同情や憐憫はなく、只、愛がそこにあるだけ。
「かわいそう」は、優しそうに見えて相手に対し低く見ることではないだろうか。
低く見て、抱き上げてくれ、助けてくれと言う狙いを持った人が言う「私は世界を愛しています!」は、「「私は世界に優しい良い子であります!」なのだ。
そこにあるのは優良で、愛とは異なる。
全母と分神の間に高低はない。
何故なら、質において同じだからである。
愛、只それだけで。
(2024/5/20)