《惜しまない人》
百年を超えても飽きることなく人生を愛する方々の、生きることへの集中力。
不覚社会で高齢と呼ばれる年になって、好奇心や感受性が次第に弱まって行く人々もいる。
至福とは異なる無感動や無気力の状態となり、人生を愛するどころではない感じ。
人によりこれほど差が出る。
人生を愛する方々は、初めからその姿勢を持って生きていたのだろうか。
読み解ける資料から彼らの人生を観察すると、時代背景も大きく関係するだろうが、生きるだけで精一杯な日々も過ごしている。
仕事を休むわけにいかず、遠く離れて暮らす親の死に目に会えなかったり、
終戦で復帰した勤め先に居場所がなく、急遽商売替えしたり、
学校勤めと農家の嫁を兼務して家計を支えたり、
色々あるが、ともかく皆さん惜しみなく働く。
体力があるから働くのか、
働くから体力があるのか。
卵が先か鶏かみたいになったが、
仕事は人任せ、家事も人に頼んで自分はジム通い&レジャースポーツ三昧で体を動かす、みたいな人はお一人もいなかった。
勿論、使役する・させるで自他を分ける百歳も、この世のどこかには居るのかも知れない。
只、資料が全く見つからない。
そうした生き方は世に周知せずに、ごく一部がするものとして保ちたいのだろうか。
出版などを通して人の生き様を世に広める役を担う人々から見て、本や映像のかたちにして紹介したくなるほどの魅力がないのかも知れない。
人生を愛する人々は、巡って来た役割を愛しており、働くことも休むことも分け隔てなく愛している。
生きるだけで精一杯な日々にあっては、あぁ自分は人生を愛しているとしみじみ思う機会はあまりなかったかも知れない。
只、自覚がなかったとしても、そうして惜しみなく生きることはそれそのものが愛である。
惜しみないので、後に残さない。
無理して頑張って、きつかったことを内心で恨みに思っていたりするなら、それは惜しみないとは全く言えない。
口惜しさを抱えているなら、それのどこが惜しみないのか。
終えたことは終えたことだと、思いを後に残さない人々の意識は今に在り続ける。
これが生きることについて赤ちゃん並みの集中力を、彼らが持っている理由だと気づいた時には、感心しきりだった。
彼らの中に「さびない鍬でありたいと若い時から思っていた」と仰られる方が居た。
体も頭も気持ちも使い続けていると錆びないと言う意味だそうだが、使うたびにちゃんと手入れをして磨くと言う意味もあるだろう。
それは一つ一つの体験をきちんと終えることと、同じである。
惜しまず、錆びず、生きる歓び。
(2024/8/8)