《恥と面白》
恥について興味が湧いたことを切っ掛けにして、実に多くを学ぶことが出来た。
本日記事では、そのまとめとして書かせて頂く。
最初に出て来た「掻くって、一体どう言うことなのだろうか」の問いも答えが分かり、
恥に共通するものがあるかどうかも明らかになり、
何でまたその恥を、人によってはとても恐れるのかと言う謎も解けた。
世の多くの人は間違いと感じるものを見つけると、そこに恥を感じる。
恥を恐れる人は間違いそのものも、それを他者に指摘されることも恐れる。
指摘される時点で人目にさらされている訳だが、人目の数が増えて、衆目となることを更に恐れる。
だが世に居る全ての人がその様に恥を恐れる訳ではない。
「てへっ」
程度の軽さで恥の感覚を消化し、ささっと必要な対処をして先に進む人も居る。
手の中で転がせる位のサイズにも、一歩も進めないと道を塞ぐサイズにもなれるのが恥。
何だか手品みたいだが、その大きさを決めているのは恥の内容でも人目でもなく、意識による捉え方である。
己の目が恥を膨らませて、そこに力を与える。
と言うことは、逆に己の目を抜くことで恥のボリュームダウンも可能な訳だ。
そこに気づいて、意識の中でそのボリュームダウンと、先程の「てへっ」を両手に乗せて眺めていて閃いた。
恥の感覚から自由になる近道、それは面白である。
恥を感じたモノコトの中に、面白さを見出す。
変な言い間違いや勘違いをした時に、当人が思わず笑ってしまう場合がある。
笑うだけに留まらず、そこから興味深い発見をすることも可能なのだ。それも面白味と言える。
恐れる人が恥に向ける目は、チェックをする目である。
恥をかいているか、どんな恥か、二度とかかない為にはどうすればいいか。
そうしたチェック機能は、出来事を本当に面白がっている時には、働かない。だから自由になれる。
なるべく恥をかかない様に注意して、何につけ完璧を目指そうと努力して来たのが不覚社会。
面白い所を探してみると言うのは、これまであまり世の人が行って来なかった恥との付き合い方かも知れない。
だが、完璧を狙えば狙う程に心身は疲弊するし、それに結局の所、完璧は成せない。
人は不完全な存在だから、ではなく、物理次元は元々完璧だからだ。
それそのもので初めから完成している次元の中で、己だけ理想的に完成しようとすることが奇妙なのだ。
恥の感覚による影響を最も弱めるのが、実行し体験を味わうこと。
しかもこれまでやったことがない新体験であると、強力に意識の状態を更新する。
だが恥の感覚にとりつかれている人にとっては、実行も体験も億劫なものになっていることが多い。
新体験を始める時には、取り組み易い気楽なものであることが必要となる。
その時に、面白さを見つけて味わう姿勢は、とても大きな支えとなるだろう。
自由な面白は、ハードルを下げる。
(2024/4/18)