《恥と間》
人間は一体何を恥としているのか。
そこに共通するものはあるのか。
それを知りたくて調べ始め、恥は常識が作って来たのか、それとも恥が常識を作って来たのかと言う話になった。
常識は恥を支え、恥は常識を支えしており、タマゴが先かニワトリかの様に一体化して見える。
常識の反対は非常識となるのだろうが、非常識=恥とは限らないのが面白い所である。
非常識な成功法則、なんてタイトルの本でもあったら一定数の人は飛びつくんじゃないだろうか。
非常識は、勇敢であるとか冒険心に満ちた感じで捉えられることがある。
常識的にやっても大した結果が望めないと感じている人にとっては、避けたい恥どころか魅力的なものだったりする。
成功さえ出来れば。
では、不成功つまり失敗が恥なのだろうか。
だが失敗をものともせずに挑戦し続ける姿勢って、世の中的に結構好感を持たれるのじゃないだろうか。
それが成功に繋がる前であっても当事者が本気でそれに取り組んで、惨めにも感じていなければ恥扱いするのは難しい。
様々な体験があるだけで、本来はそこに成功も失敗もないのが物理次元。
だが、失敗とされる結果を糧に歩む人の姿を、格好悪い恥ずかしいと嗤う人々も存在する。
そしてそうした嗤う人々は、更に多くの人々から恥ずかしいと思われても居るだろう。
真剣な姿を嘲笑うことはみっともない恥ずかしい行いだと言う常識も、世の中にはあるからだ。
人々が恥だとしているどれを分解して調べてみても、これは絶対的に恥だと出来る決め手には欠ける。
「恥の種類って人の数だけあるのだろうか」
しかも混ぜて塗れるみたい。
と、多種多様な恥を集めてみて漸く気づいた。
恥に共通するものはある。
それは
「間違い」
である。
だから設立した会社が倒産するとか打ち上げたロケットが落っこちて戻って来るとか何らかの失敗的な結果が途中に生まれても、挑戦の続行が間違いなくやりたいことである人々は、彼らにとって「間違いない」からそれをする。
失敗という結果は何であっても「間違い」だと捉える人々は、それを恥だとして嗤う。
真剣な姿を嗤うのは人として「間違った」態度であると思う人々は、その嗤う人々のことを恥ずかしく感じる。
さて、謎が謎を呼び、又謎が出て来た。
「間違いって、何の間?」
恥に共通するものはあると分かり、一つ消化出来たらこれである。
だから面白い。
次回は間について書かせて頂くことにする。
違う間がありゃ、正しい間もある?
(2024/3/25)