《恥と人目》
前回記事で恥について「調べる程に、どうにも奇妙なことが沢山出て来る」と申し上げた。
矛盾した奇妙さを沢山抱えていて、尚且つ人類が手離し難いもの。
この点において、恥と共通しているものがある。
それは、エゴ。
恥はエゴと密接に関わる。
そりゃそうだ。
この世に一人しか存在していなかったら、恥だってかきようがないのだ。
どんな恥にも、他者の存在が要る。
もっと言えば恥には数人から大多数まで、複数の他者の存在が要る。
二人きりのデートで、食事のマナーがなっていないと相手から冷たい目で見られて恥ずかしさを感じたなどと言った場合にも、その場に居なくとも大勢の「ちゃんとしてる人々」はイメージの中で恥判定に“参加”しているのだ。
無人島に全裸で居るより、左右違う靴下を履いて来たことに会社で気づいた時の方が、人は恥を感じるのじゃないだろうか。
恥をかくの「かく」は「掻く」と書く。
これは痒いところを搔くとかではなく、「あまり好ましくないものを表面に出す動き」なのだそうだ。
同じ意味でかくが付くものとして汗や涙、いびきがあり、「汗をかく」「べそをかく」「いびきをかく」と使われる。
その時その場で必要だから出て来るのだろうに、何故好ましくないとされるのだろうか。
汗については「いい汗かいた」とか言ったりもする。
運動でかく汗とは違って、寝汗とか発熱、辛いものを食べた時などの発汗は、見苦しい悪い汗とされるのかも知れない。
どのタイミングでかいても、臭う汗なら周囲にとっては好ましいとは言えなさそうだ。
泣きそうな顔になる、べそをかく姿に感じる好ましくなさとしては、感情を剥き出しにして見っともない印象になると言うことが挙げられるだろうか。
いびきについては不健康かつうるさいと言う判断から、好ましくないものとなっている様に感じる。
好まれない点については何となく分かって来たが、それにしても、汗や涙、いびきなどは見えたり聞こえたりしてそれぞれ明確であるのに、恥は「はい、これが恥ですよ」と明確に出来ない。
“かく仲間”の中でも「欲をかく」の欲と並んで、謎めいたメンバーなのだ。
恥をかくと言う表現について意味を調べてみたら、解説の中に「恥などを身に受ける」と書いてあった。
身に受けた恥によって、好ましくないものが表面に出る仕組み。
赤っ恥をかくの表現もあり、恥を感じて出た赤面などが「好ましくないもの」にあたるのだろうか。
赤くなることは、好ましくない?
血行が良いと健康によろしいとか人間は言ったりもするのに不思議なことだが、恥と言う字の左側にある耳も、耳が赤くなる様子を表わして付いているのだそうだ。
聴く耳を持つと言う状態は、聴いて変化する余地や柔軟性があることを示す。
耳を赤らめるだけに留まらずに、恥ずかしい気持ちを切っ掛けにして変化する体験も人類は沢山して来たはずである。
恥の衝撃は時として覚えておく力に、時として変化する力になっても来たのだ。
恥が人間を苦しめて来たのではない。
人間が恥を都合よく使って、時には遊び、時には勉強し、刺激にして来ただけだ。
恥の感覚に足がすくんだり押し潰されそうな気持ちになる人は、恥ではなく人目が怖いのだ。
人目誰の目、己の目。
(2024/4/11)