《念を観る》
先日の記事に登場した「固定観念」と言う言葉。
観ることも念ずることも、どちらも御神体ではなく分割意識が担当するはたらきである。
観察の観を用いると言うことは、対象を丸まま観ているはず。
丸ままの対象に向けて、念を加えるとはどう言うことなのだろうか。
観念についてちょいと調べて確認してみると、意味が幾つか分かれて出て来た。
1 物事に対してもつ考え。「時間の—がない」「固定—」
2 あきらめて、状況を受け入れること。覚悟すること。「もうこれまでと—する」
3 哲学で、人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象。
4 仏語。真理や仏・浄土などに心を集中して観察し、思念すること。観想。
「成程なぁ」
固定観念については、使用例として出ているので1の「物事に対してもつ考え」と言うのがその意味となる。
そして、意味の4に出て来る「観察し、思念する」と言う表現。
これによって、観念は思考と深く関係する言葉であることが分かる。
思考もやはり分割意識が担当するはたらきである。
1の「物事に対してもつ考え」によって構築された像、表象が3の観念になる。
「具体的なものがなくても、それについて心に残る」と書いてある。
ここでもやはり分割意識の担当するはたらきとそこに生まれるイメージの話に留まり、御神体とのやりとりはない。
勿論こうしたことはどれも意識だけで行えるはずもなく、近い場所としては脳の力を借りたもの。
そして脳は単体で存在も活動も出来ないので、それ以外の部分の御神体の力も借りている。
しかし、分割意識は固定観念作りの遊びに夢中な時には大抵、御神体の存在をまるっと忘れている。
その為、共同作業と言うよりは、カミさんにおんぶに抱っこ状態の旦那が好き勝手している分離状態となる。
申し上げるまでもなく、こうした思考の道具や産物としての観念を使って本道を行くことは無理である。
面白いのが2の意味で、「あきらめて、状況を受け入れること。」はどうにかしようと巡らす思考を手離すことであり、「覚悟すること。」はあらゆる思考から自由になることだ。
何故こうしたまるで違う意味が生まれているのか。
「もうこれまでと—する」と言う使用例を眺めて、「あっ!」と気づいた。
2だけ、観て念じるのではなく、念を観る状態になっている。
エゴを使って、ああしたいこうしたいとか、ああなってこうなって欲しいと言う思いで圧をかけていた己の念を、離れた状態で観る。
己の念を観ることは、己の執着も観ること、そうしている己の姿まで丸まま観ることに繋がる。
その様に観られて初めて、明らかに“あきら”めることが出来て、覚悟も決まる。
後から生まれたろう2の意味こそが観念を最も味わい深い言葉にしている。
青は藍より出でて藍より青しとは、まさにと言える。
晴れやかに、観念してみよう。
(2024/2/26)