《心合わせて》
丁度は、場合によって恰度とも書くらしい。
「そっくりそのままある物事にたとえられるさま。まるで。さながら」の意味の時に使うとして、例文に
恰度秋晴れの空のような深い青
を挙げている資料があった。
だが、昭和10年代に書かれた小説『愛と死の書』の一文に「恰度、駅からの自動車が家の前にとまりました折」と書いてあると言う別の資料も発見。
タイミングが合う意味で使う丁度にも、恰度の字は当てられていた様である。
「忄と合で、恰か。面白い字だな」
と眺めた後に、恰には字の形にそのまま表れている「心に合う」意味だけでなく「身体に合う」意味もあると書かれた説明を読んでハッとなり、
「そうだよ!!!」
と、頷いた。
心身と書いて心と身体を分ける時、心は気持ちや感覚と言った目に見えないものを示し、分割意識の領域にある様に扱われる。
だが、心臓と書けば臓器の一種として御神体の領域にある様に扱われる。
恰を使う言葉として、求めているものに対し形や値段、様子などが丁度よいことを示す恰好や、その人に合う体つきを意味する恰幅があるが、いずれも目に見えるモノコトについて言う。
恰に「心に合う」「身体に合う」の意味があることには、心は身体つまり御神体と一続きの存在であることが表れている。
心も身なり。
心を満たすとは、分割意識が興奮したり悦に入ることではなく、そこには御神体との総意が欠かせない。
分かり切ったことの再認識であるが、これが「そうだよ!!!」となった気づきである。
そして心は分割意識と御神体の意が待ち合わせする場でもある。
これについては以前にも申し上げたことがある。
改めて丁度を叶えるには心で待ち合わせ、息を合わせる必要があるとお伝え出来るのは、面白く有難いことだ。
声高に主張したりしないが御神体にも意がある。
世界を愛する。
生きることを愛する。
弥栄を行動で示す。
それは天意に沿った神意である。
そこに覚めぬままの分割意識がもっと大きい声で
「幸せになりた~い」
「人より恵まれた~い」
「あいつに勝ちた~い」
「こうあるべき世の中にした~い」
「何か退屈~」
「だる~い」
「つら~い」
あれもこれもとか、あーでもないこーでもないとか。
等々とやって意を放てばカミさんは止めもせずその賑やかな言い分に付き合うので、御神体の神意は聴こえ辛くなる。
だが、消える訳ではない。
その静かな神意を聴くことが出来るか、更には汲んで活かすことが出来るか。
これが分割意識達にとって共通の、そして必須のテーマとなっている。
デートで待ち合わせたら、
ヘッドフォンは外そう。
(2023/10/26)