《心と真》
心と真は、ココロとマコトに分かれるだけでなく、同じシンの音を持っている。
二つの字を眺めていて、そう言えば面白いなと気づいたことがある。
本日記事ではそれについて書かせて頂く。
真と心を並べればシンプルに、真心となる。
では字の並びを逆にした時はどうか。
心真という言葉はないが、一字にすれば慎の字が出来上がる。
真心と慎みを似ているものだと感じたことはないが、字の並びを観察してみるとこの通り。
両者に共通するものは、あるのだろうか。
真心とは真実の心。
偽りや飾りのない心のことを言う。
慎むの意味は、幾つかに分かれている。
あやまちや軽はずみなことがないように気をつけ、慎重に事をなすこと。
度を過ごさないよう、控えめにすること。節制すること。
恭しく畏まると言う意味もあるが、その場合には「謹む」と書くので、ここでは取り上げない。
他にも一般社会で使う機会はほぼないが、物忌みとか斎戒と呼ばれる、神事などに際して飲食や行動を慎み心身を清める行いを意味することもある。
念を入れ気を配ること、控えめにすること、場合によっては止めにすること。
こうした慎みで、心の真を叶えようとする背景には、慎まなければどんどん真からズレて行ってしまうと言う捉え方がある。
ズレは、全体に中立な真っ直ぐの状態から、自己都合に傾くことで起きる。
実際、得がしたいとか楽がしたい等の「良い思いがしたい」方向にエゴを使って傾く体験を、不覚社会は数え切れない程こなして来た。
得や楽はいかんと言うことでは全くない。
全体一つの流れに沿った時に、世の中的に得や楽だと見なされるモノコトが巡って来たら、それはもうそのまま受け入れるのが自然である。
傾くのは
「自分さえ得したり楽したりと良い思いが出来れば、全体の流れなどどうでもいい」
となった時。
そうした“自分”と呼ぶ一部の重要度が突出した傾きによって、不覚体験を沢山作ってみることが必要な時代もあったのだ。
その中には、傾きを慎みで押し返して真っ直ぐにしてみようと微調整する体験も含まれている。
真心と慎みの差は、どちらの字を先に置くかに表われている。
真を第一にするのか。
心を第一にするのか。
意識が真に向かっていると言う点が真心と慎みには共通するが、慎みとは、心配りによって調整し、真の状態を作ろうとする動きなのかも知れない。
真とは作り込んだ先に生まれるものではないが、理想を求めてそうしてみたくなるのが人間、と言うことだろうか。
真心には調整が要らない。
何故なら、良かれがないからである。良かれに限らず良し悪しがまとめて、ない。
良く思われようとか、良くしてあげようと言う心配りの元になる基準がなく、只そこにある偽りや飾りのない心。
真心とは、狙いのない心と言える。
あるのは弥栄の意志のみ。
(2024/6/6)