《役目の力》
世に知られた事件の無罪判決が、半世紀以上の年月をかけて確定したニュースを先日観た。
この報せを切っ掛けに、人それぞれ向き合う様々な役目について、より深い気づきと理解に至ることが出来たので、本日記事にて書かせて頂く。
ご存知の通り、普段は人間的な意味での正義にも情にも拘らず、日々新しい発見をし続けているこの端末。
虚空も上も宮司を名乗る“これ”の役目に不要な情報はもたらさない。
勿論こちらでも、そうした運びに何の不満も不足もない。
こんな調子なので「これが許せますか!」と憤るご報告があったとしても、「許すも許さないもないのでは?」と、持ち込んだ人にとっては気の抜けた返しをすることになる。
幸不幸や善悪優劣等の二極が一つに溶け合った状態で世の中を観察しているので、許さないと憤る人についても勿論、許すも許さないもない。
そんな者の前に、ひょっこり現れたこのニュース。
するすると上から伝わって来るメッセージを味わって、「何と言うことだ!」と、感謝で手を合わせた。
記事を読まれている方も既にご存知かも知れないが、改めて出来事について申し上げる。
勤め先の専務一家を、その自宅で襲い家族4人を殺害し放火した疑いで、一旦は死刑が確定した男性。
彼が無実であることを、明らかにしようと支えた人々の地道な努力によって、無罪が確定するまでの長い道のりは、冒頭に書かせて頂いた通り、半世紀を超えるものとなった。
全体一つの流れの中で、これは一体何を示しているのか。
男性本人は拘禁反応と呼ばれる、長期の収監や死刑の恐怖による影響があり、意志の疎通が難しい。
彼と世の中を橋渡しし、最も近い場所で支え続けた姉の存在が、無罪確定に至る道を拓く力となった。
このお姉さんの人となりや器の大きさに感銘を受けて、集まった支援者も多いのではないだろうか。
これは自由を取り戻そうとする一人の人、一つの家族にとっての戦いであると同時に、不覚社会に暮らす人々の意識上に定まる、権力の影響を揺るがす戦いでもあった。
権力を持つ集団がこうと決めたらこう
生命も含めた自由はあきらめなければならない
どうせやっても勝てない
長い物には巻かれろ
そうした“お約束”が、崩れた。
一つの事件が無罪と確定する水面下で、不覚社会の制限を作っている固定観念の一角が動いたことを感じる。
死刑確定後に再審公判が開かれ、無罪判決が言い渡された事件は、今回が初めてではなく、その前にも4件の前例があるそうだ。
だがこのたび確定した事件は、情報の伝達拡散が速い令和と言う時代と、お姉さんと言うキーパーソンの存在によって、社会に与える波の大きさがそれまでのものとは違っている。
社会を取り巻く潮目が大きく変化するにあたって、象徴的な出来事の一つとなっている。
同時に、この件を通して正義や人道について以外の関心も、人々の中に生まれている。
インタビュアーは皆、お姉さんの若々しさに驚き、事件の内容には関係ないはずだが大抵そこに触れている。
これ程の年月、苦難の道を歩んで、なぜ草臥れた感じにも、病み衰えた感じにもなっていないのか。
長い戦いの果てに自由を取り戻した物語として感動もしつつ、多くの人が興味を寄せて知りたがっているのは、実はそこなんじゃないだろうか。
苦労って損かな?
苦労って何かな?
あのお姉さんの姿を見ることで、そうした内なる問いが発生する人々も出て来るだろう。
次回も、この学びについて。
(2024/10/14)