《役目と器》
前回記事にも取り上げた、袴田事件と呼ばれる出来事の無罪判決とその確定。
これは世の人に、様々な学びの機会を提供するものとなっている。
無罪と認められたご本人と、彼を支えるお姉さんの両人がどの様な人であるかについては、沢山の本が出ている。
調べる程に、世の中的には受難と呼ばれそうな、この事件。
逃げず役目を果たせる二人であったからこそ、もたらされたのだろうか。
拘禁反応によって、現在はそこに居ながら別世界の住人になっている部分もあるご本人。
そうなる前は明るく素直で、地に足のついた知的な人でもあったことが、過去の書簡などから分かっている。
支える家族として歩まれたお姉さんのルートが、弟の代わりに惜しみなく各所へ働きかける険しい動の道なら、
いつ刑が執行されるか分からない状態で、ずっと同じ場所に留め置かれることが数十年と言う、ご本人のルートは険しい静の道と言える。
明日生きているかどうか、100%確実に保証されてはいないと言う意味では、全人類は平等。
だが捕らえられ、生命の危機を回避することも出来ない状態で、「さて、明日がその日かな?」と一日一日突きつけられる生活をしている人は殆どいない。
縄一本で縛られて崖の上から吊り下げられ、いつその縄がプチンと切られるか分からない。
そんな状態でいることの緊張。
同じ様な状況にある人も会話出来る近さに居り、誰かの綱が切られるのを目の当たりにする衝撃もある。
そんな中で生き続けることはどれ程、知恵と勇気、そして生きることへの愛を必要としただろうか。
静と動のセットになった二つの道が、壁に隔てられていた状態から、釈放の場面で重なり、無罪確定の所で清々しい日に照らされる。
最も長期に渡って死刑囚になっていた人としてギネス認定もされているらしいので、そのうちハリウッドで映画化されたりするかも知れない。
彼らの物語は実際に起きたこととして、人々の意識にどの様な変化を起こすのか。
それはこれから観察して行かなくては分からないことだが、取りあえず今の今、申し上げられることもある。
「凄いことだが、結局こう言う稀な役目は、それに見合う器の人にもたらされるものなのだ」
と、片付けて意識が日常に戻るその前に。
今向き合っているモノコトの中に、
「ちょっと困難だ」
「ちょっと億劫だ」
「ちょっと不安だ」
「ちょっと憂鬱だ」
と、躊躇う部分がある方は、それを「あのお二人なら、どう向き合われるかな?」と、
彼らの器の中に、意識の上で入ってみること
これをお勧めする。
「あのお二人に比べたら、私が向き合ってるものなんて大したことない、そうですよね」
と片付けるその前に、シンプルに「器の中に入ってみる」と、彼らの強さだけでなく、柔軟さが分かる。
そこで初めて困難や億劫、不安や憂鬱の元になってるのは、モノコトそのものではなく、それに対する自身の固まった見方であることに気づける。
入った器の中で柔軟さを感じながら、自らの向き合っていることについて「あっ、このやり方があったか!」と分かる変化が起きても不思議ない。
強靭は、強いだけでなく靭性を必要とする。
靭性とは、材質の粘り強さ。外からの力によって破壊されにくい性質のことであり、この粘りには柔軟さが欠かせない。
周囲にべたべたと粘着する人は、粘る力が外に漏れ出た状態であり、エネルギーを漏らさず天地に向けて自立する時、見方や動き方を柔軟にする力が生まれる。
役目を果たすには、自らの器を知ることが必要。
それには、別の器がどんなものであるか知ってみることも、大きなヒントとなるのだ。
粘る時、折れない。
(2024/10/17)