《形追えども》
全体一つの感覚によって、新世界はもうここに在ると自然に分かって生きている。
そして、現状は不覚状態にある人々の意識も、どの辺りでそこに気づいて行くかどうかを面白く、また興味深く観察している。。
気づくだけなのであれば、意識がざわつくとか、すっきりしたとしても一瞥程度の変化が起きるに留まる。
気づいた上に消化と昇華をして、納得と実感にまで深める中で、進化変容の起こる機会も増えて行く。
その流れの中で、
何がどう起きようとも、
誰が目を覚まそうと、
また覚まさなかろうと、
苦であれ楽であれ、
増えても減っても、
泣こうが笑おうが、
全体から見ればそう変わらない。
人間風に言えば、
誤差の範囲
なんて表現になるかも知れない。
これは「ちょっとのこと」と言う意味らしい。
ちょっとの差も誤りだとして、欠けているとか良くないと言った意味合いを待たせる。
完璧を目指すことを良しとする、人間らしい表現だと言える。
そして、完璧とは何なのかを実際問われれば、誰もはっきりと答えられないのも又、人間らしさと言える。
答えられないことについてハッと気づくどころか、寧ろ答えられないことにちょっと酔ったりもする。
哲学的とか詩的と呼ばれる考え方や美学を使って、答えられないと言うことを手の上で転がして、複雑な模様の入ったガラスのオブジェみたいに扱って遊んでいる。
そうこうしている間にも、地球環境含めてモノコトはどんどん変化して行く。
既に申し上げて来た通り、極度に暑い寒いとか季節天候に関するもの、人口減少や戦争不安など人の動きに関するものと、形が違えども様々に現れるモノコトは全て、
御神体を主に置く
生き方に変化することを促している。
自他を問わず、御神体にとってそれは自然なのかどうかと言う点が、新世界においては第一となっている。
その表れの一つとして、女性の権利を認めることや男女平等が叫ばれる動きも起きているのは、ご承知の通り。
只、長年意識主導でやって来て不覚状態に慣れ切っていると、平等と言っても平等の在り方が分からない。
御神体の外見が男性型の端末であっても、又、女性型であっても。
だから体きついなぁと思いながらバリバリ働き「ワタシ頑張ってる!」と意識が自画自賛をしつつ、男女格差ってどうして埋まらないのかしらと溜息をつく珍妙な生き方も起こる。
内に在ることが外に向かって波及するので、順序としては分割意識が御神体を尊重する方が、男の性別を持つ者が女の性別を持つ者を尊重するより先になるのじゃないだろうか。
もしくは同時進行で徐々に起きて行くか。
だが、形だけの平等を追うことに夢中になっていれば、女尊男卑だと言う巻き返しでシーソーみたいに揺れる動きを繰り返すのみになるだろう。
案外そこを狙った、時間稼ぎの遊びなのかも知れない。
こうしたこともやはり、全体の運びからすれば何の支障もなく、行き着く先は同じとなる。
形追えども、実は成らず。
(2024/7/18)