《形と点》
「世の中の変化について、深刻な捉え方をすべきだ」
そう考える人々は、深刻と本気をごっちゃにしている。
本気で観察する時、深刻は必要ない。
悲観も必要ない。
楽観が必要ないのと同じに。
悲でも楽でも、特定の色合いで塗りこめるなら、それはありのままを観ていない。
個の都合なしにモノコトを観察すると、その時々で集中を向けている観察対象も、対象の輪郭の外側である周辺も、同じ様に変化流動し続けていることが分かる。
周辺どころかどれだけ離れても地続きで変化流動している。
この全体一つでの流動が、同時に点滅でもあることは本当に面白い。
世界は体験以外の何も増やしていないし、減らしてもいない。
只、点滅によって「見ていると感じているもの」が刻々と変化し、その変化が流動となっている。
この面白さは、世の人が事あるごとに持ち出す尺度である「好き嫌い」では測れないものだ。
こうした面白さを感じている時、移り変わる世の中に対して深刻な捉え方をしている人々も又、変容の時代に変わり始めた群像劇の中で、そうした役を担っているだけなのだと分かる。
深刻も他の全てと同じで、良くも悪くもない。
一見すると変てこな動きも、大きな流れの中ではちゃんと役割を果たしていたりする。
これがなければ、あれは出来なかったな。
そう言うことを世の人は、結果として何かしらの成功をおさめたり獲得したりした時にしか言わない。
だが、成功失敗の評価なしに見ると「これがなければ、あれは出来なかったな」と言える運びは、もっと沢山あると分かる。
なかったとしてその場合は違うことが出来る訳で、やはり得るも失うも別にないのだが、得失関係なく、これまでの運びとこれからの運びに納得し感謝すると、流れをより自然に受け入れられる様になる。
全体一つの流れはそもそも初めから自然なもの。
不満を抱えた意識が「何でこうやって流れないんだ!」と、あって欲しい流れを訴えて石を投げこんだり、とにかく流れて欲しくないと堰き止めようとしたりしていて、変な感じを作り出していた。
それも上手く行かなくなり、あちこちで鉄砲水みたいな暴発が起きてワ―キャーしている。
変な感じを作れるフェアみたいな期間も、その終了を受け入れられないで起きている混乱も、やはり大きく観れば全体一つの流れの中でわざわざやってみていることに過ぎない。
全部、やってみたかっただけ。
そして十分体験したので、本流に力が戻され、どんどん変化が加速している。
それら全てが点滅している。
深刻になるのは、モノコトを形としてだけで見ているからだ。
形はそれぞれの体験を楽しみ味わうための目印。
形であると同時に点であることを忘れなければ、それを感じ続けて、つまり観じ続けていれば、悲観に捉われることも、楽観で誤魔化すことも起きなくなる。
点で無き、形は無し。
(2023/10/19)