《当たって癒やそう?》
先日八つ当たりについて調べていて、類語の中に「腹いせ」を見つけた。
腹いせとは、腹癒せと書くらしい。
八つ当たりもそうだが、腹立ち紛れに当たることで、一体何がどうなって癒やされた感覚になるのだろうか。
興味が湧いて上に問いかけたら、程なくしてポンと答えが来た。
“引きずり下ろし”
「成る程ねぇ」
と、頷いた。
感情の当たり屋行為は言うまでもなく、相手に不快な思いをさせることを狙ったもの。
反撃されなさそうな相手を選んだり、やんわりと表現するなど反撃されなさそうな手法をとる。
反撃出来ないことで無力感を生じさせて相手の力を削ぐことを狙い、引きずり下ろした分だけ自分が浮上する。
その浮上感が癒やしと感じられる。
そうは言っても全然浮上はしていないのだが。
当たり屋行為をする人の意識が“そんな感覚を得た気になる”だけ。
実際は、八当たりや腹いせの力を持ち込まれても何も削がれない人も居る。
確実に言えるのは、八つ当たりも腹いせも愛ではないこと。
そして、仮初めの浮上感も新たな波が来ればすぐ沈むことである。
“引きずり下ろし”のメッセージは、改めて不覚の意識達が「幸福は定量である」と見なしていることを振り返る切っ掛けとなった。
負け組を作らなければ、勝ち組になれないと言うものの見方。
定量の奪い合いの勝者になる戦いを、どの辺りで「あ、これゲームだわ」と気づいて軽く楽しめる状態に変化するのだろうか。
戦いなど愚かですと、聖なるユートピアを作ろうとする試みを繰り返して来た人々が、
「愚かだっつってんだろ!!」
と、激怒して聖人の仮面を外して投げつけ、彼らに俗人と見なされて来た人々から、それだって戦いじゃないかと笑われる場面。
そうしたことはこれまでもあったが、そんな小噺みたいなオチがつく展開も増えるだろう。
当人にだけ深刻で全体一つで眺めると小噺であるストーリー達にオチがどっさりついてから、それを分け隔てなくまとめて観察出来る人々の消化と昇華によって変化するのも知れない。
物理次元は何と面白いのだろう。
浮上の癒やしも限りあり。
(2024/7/15)