《姿変われば》
怖がったり気味悪がったりするのにも、特定の条件に絞って視野を狭くしなければならない。
前回記事でこの様に申し上げた。
事故物件の様に避けたくなるほど怖がったり気味悪がったりする場合については、特に臨場感が必要になる。
その元には「自分の身にも起こるかも知れない」と言う、イメージ上の共有がある。
共有する条件は、10年前100年前と言った数字でも、昭和や平成と言う元号でもない。
人の身なりや街の景観ひっくるめた、「姿」の有り様である。
自身も含めた今の時代に生きている人々が居ることを想像出来る場所で、着ていてもおかしくない服を着ている。
それが、強い臨場感を作り出す。
勿論、今の今、例えば時代村か何かで
「町人姿のスタッフが、江戸の長屋を再現した建物内で、事件や事故の当事者になった」
としたら、ニュース視聴者の意識にはそれなりの衝撃が生まれるだろう。
その格好はあくまで現代の人による仮装や扮装で、勤務時間が過ぎれば解かれるものであり、
長屋も実際の生活には使われていない、娯楽施設の一部だからだ。
面白いもので怖さや気味悪さは、臨場感が減ると遊興の気配が増す。
怪談やホラーが好きな人間は結構いるし、ハロウィンなど平和じゃない雰囲気のイベントも平和に楽しんだり出来る。
そうした姿に、“見たい所だけ見て、欲しい所だけ取る”人間の奇妙な癖が感じられて面白い。
その調節の上手さは料理に好みのスパイスを足すのに似ている。
強い刺激を旨味と感じる人も世の中には居る。
事故物件を舞台にしたホラーを好む人などは、激辛料理が好きな人に当たるのかも知れない。
料理や人生に対して、スパイスが欠かせないと言う表現を見たことはある。
スパイスにとっても料理や人生は欠かせないものなはずだが、そう言われているのを見たことも聞いたこともない。
ものすごく当たり前なことは、何につけても放って置かれ、見過ごされ易い。
姿も見過ごされているものの一つである。
姿が優れているかどうかは気にしても、そもそも姿とは何かと言うことに、人は意識を向けない。
住まいや職場、学校、訪れる先。それらは全て、場の姿と言える。
身なりや体形、生き様は人の姿と言える。
時に応じて変わり、バラバラに分かれ、ある程度は合わせて誂えることも出来る。
そして全く同じにはならない。
姿とは、面白いものだ。
内なるものは外にもと言うなら、
外なるものは内にもである。
そして本当は、内も外もない。
姿変われば、何変わる?
(2024/10/31)
10月のふろく《今の姿メモ》
今の姿を愛すことなしに、訪れる機会の消化と昇華は成されません。
今の姿を愛し感謝するメモをこしらえました。
真ん中の達磨は今の姿の象徴です。
ピンクの花には御神体の姿
青い鳥には生活する場の姿
黄色の蝶々には生きる姿勢
それぞれについて浮かんで来たことを自由にお書き頂ける様になっています。
過去に得た物やこれからのイメージは関係なしに、今まさにそうであることについてお書き頂き、赤い鯛の所にそれらについての祝福を記し、愛と感謝を送ることで、今の姿がより鮮明になります。
すっきりと視界が晴れると、踏み出す一歩も明らかになります。