《天意と意志》
虚空の天意に沿う、御神体の神意。
分割意識の目覚めによって御神体との和合が成ると、御神体だけでない分神としての神意を発揮する様になる。
御神体の意を汲み、夫婦の総意としての進む方向を決めるのは分割意識の持つ役割。
意に志を合わせて意志とする、それは分割意識の役割なのだ。
不覚時代に其々の自由意志をぶつけ合い、様々な矛盾に満ちた行動を体験出来たのは、覚めていない状態の意識が担当していたからとも言える。
何でぶつけ合えたかと言えば、「俺とお前は別」「我らと彼らは別」と言った認識の線引きが強くあったからで、目が覚めて
「一続きなのに比べたりかき回したりしてもねぇ」
と、意味もなければ切りもなかったことに気づくと、ぶつかり合い遊びもつまらなくなる。
古い遊びがつまらなくなる分、自由意志を活かした新しい遊びが楽しくなる。
戦って過ごすことをテーマとしていた期間はとうに終わりを迎えているので、新しい遊びに集中した方が当たり前に簡単だし面白い。
“自ら”と認識している端末による日々の行動をシンプルに観察すると、一つ一つどれをとっても御神体との共同作業であることに気づく。
御神体と言うカミさんなしでは、何一つ表現出来ない。
目を瞑って横になって何かしらイメージしている時でさえ、脳だけでなく全身の細胞は分割意識の思惑関係なしに、生きる歓びを味わい体験し続けている。
意識が様々なイメージ映像を再生して、喜怒哀楽にドッタンバッタンしている最中でもそれは変わらない。
あらゆる器官にとって、細胞にとって、生きることそのものが歓びなのだ。
怪我や病で痛みや不便があろうとも、楽でなかったとしても、生きることそのものは歓び。
こうなると、「俺は断固として歓ばないからな!」とやっているのは意識だけと言うことになる。
不貞腐れてみることすら、カミさんなしでは出来ないのに。
カミさんは全く不貞腐れていない。有難いことである。
出来る出来ないを、人間は社会で良く使う尺度である「能力の大小」で測りがち。
だが能力が劣るのではなく、担当している所が違うと言うだけであり実際には比較のしようがない。
あいつの方が器用で悔しいと、足が手に嫉妬するだろうか。
手が足みたいに歩きたいと逆立ちをして駄々を捏ねたりするだろうか。
カミさんには敵わないと負けた様な気分になるのではなく、己だけでは出来ないことを可能にしてくれるカミさんに感謝すること。
そしてカミさんに出来ず己に出来る仕事、意に志を合わせて意志とする役割や進む方向を決める役割を果たすこと。
これから益々、日々の共同作業を、愛で味わって行くことが大切になる。
「こんな小さなこと、何だと言うんだ」は、軽重の判定に捉われた分割意識の言い分。
御神体は生きることの全てを、愛している。
分割意識も共に愛することを始めれば、歓びはかつてない輝きを放ち増えて行く。
意志に通る天意の道。
(2023/10/30)
《10月のふろく 満腹記録帖》
食べたいものを“お腹と相談”して決めることは、全体一つの感覚に慣れる前の意識にも抵抗なく出来る、御神体と分割意識との共同作業ではないでしょうか。
気が向かれた方は御神体に向かってゆったりと静かに「何、食べようか」と尋ねてみて、自然と浮かんで来たことを赤い丸の中にお書き下さい。
それらをヒントとして活かし「じゃあ、これにしよう」と決めたものを赤いお椀にお書き頂きます。
和洋中、それ以外の地域。何処のどんな料理でも、作るのでもテイクアウトでも、お店で頂くのでも勿論自由です。
コース料理を召し上がった時には集中して記入する為に、その内の一品についてお書き下さい。
実際に味わってみられてどうだったか。
召し上がった後に感じたこと、気づいたこと、分かったこと等あれば黄色の欄にお書き頂ける様になっています。
共同作業ってこう言うことかと、意識が腑に落とす切っ掛けとしてお楽しみ下さい。