《地に満ちる》
本日はクリスマス。
イエス・キリストが地上に生まれたことを、「降誕」と表現する。
その為、クリスマスもキリスト降誕祭とか単に降誕祭、降誕日、聖誕祭等に訳される。
国によってはクリスマスのことを、誕生を意味するノエルの名称で呼ぶ。
降誕なのか聖誕なのか、誕生なのか。
くるくるとそうした言葉達を意識の中に巡らせていて、ハッと気づいた。
救い主が降りて来る。
その運びは人々の中で天に対するイメージの特別感を増大させる。
地上の馬小屋で生まれていても、天出身と紹介を添える。
地上の竹藪の竹の中から生まれた、月から来たと言うお姫様の話に重なる。
彼らがどう言う存在だったのかについてはもう既に読み解き、必要な場面でご報告もしたので、ここで繰り返しはしない。
今の今、必要なこととして申し上げるのは、
どんな存在であろうと、地で生まれ地で生きたことで、物理次元に参加出来ている
と、言うこと。
そんなの当ったり前じゃないかと言う方も居られるかも知れないが全くその通り。
当たり前で、そして凄いことではないだろうか。
地がなければ、イエスもかぐやも、降りる場所がなくその辺グルグル回ってうろついてただけなのだ。
聖なる存在はうろついたりしないと仰る方には、少なくとも暇はしますよねと申し上げておく。
用事があるって、素敵なことじゃないだろうか。
用事があり、必要な宿題があったからこそ、体験出来たこと。
それは大きな成長の機会となる。
地は救ってやらなければ、又は救って貰わなくてはならない呪われた場所ではない。
無数の体験を生み成し育む、自由意志を発揮する祝いの場なのだ。
「クリスマス」は、キリストのミサに由来する。
宮司を名乗るこの端末も、ここ数年出かけたりネット上で眺めたりと、様々な場所や形式でミサを観察している。
この宗教に限ったことではないし他のイベントも観察はしているが、人々の様子や会場の雰囲気に表れる変化に意識を向け、人類の中で宗教に対する価値観がどう変わりつつあるかを知る、一つのヒントとなるのは有難いことだ。
何より、人々が信仰に縋るのではなく敬意を払った上で自立する、進化の道のりを観察することを歓びに感じている。
地に満ちる
静かな歓び。
(2023/12/25)