《呼応する世界》
呼と言う動きと、吐と言う動きの、最も大きな違い。
それは「はっきりしとした応答を求めたものであるかどうか」ではないだろうか。
桃色吐息などの様に何かしらの意図を含んで相手に吐かれたものであっても、吐の場合はそこに
「yes、○○ですね」
と言った的確な返事は望まれていない。
何となくその気になるとか、それとなく態度で示すとか、影響されて何か行動に出るとか。
いずれにせよ、そこに求められるのは、はっきりとした応答ではないのだ。
もし吐息を察知した相手が
「今あなた私に、お色気作戦を仕掛けましたね。そうは行きませんよ!」
などと返答したとしても、
「何のことです、自意識過剰じゃないの!?」
と切り返せる。
落胆する気配をもって、わざと聞こえる様に息を吐いて見せるのも同じ。
がっかりしたことを示された相手が嫌な気持ちになったり、その落胆について何か言いたくなっても、どう返せるだろうか。
言語化されていないものに対して、はっきりと文句を言うのは難しい。
それにもし何か言えたとしても、吐いた側は
「何のことです、私は何も言ってませんよね?」
「そんなつもりはなかったんですが、勝手にそう聞いただけでは?」
と切り返せる。
地に向かって吐くかたちをとって、人に向かって吐くと言う動きは、観察してみると実に都合よく出来ている。
戻って来る反応の中で、欲しいものだけ受け取って、いらないものは捨て置ける。
それはある意味で、コミュニケーションの否定と言える。
だが人によっては、使い勝手が良過ぎて手離し難い癖となるのかも知れない。
何となく、それとなく、音や気配を使って、言外に促す。
これが得意な人は2024の現在でも未だ世に多く居る。
ご承知の通り、このやり方の効果は日に日に薄れて来ているし、得られるものも減って来ている。
世界は人々を待たず、着実に新しくなっている。
不要なものは地に吐いてポイ捨てする時代は、とうに終わりを告げているのだ。
愚痴を吐き出す、暴言を吐くなど、人は吐を使ってストレス発散を沢山して来た。
では呼を使って、何をして来たのだろうか?
人は呼ぶ時に、はっきりとした応を求める。
人が人に呼びかける時。
その奥には、人型生命体から全母たる虚空への呼びかけがある。
この呼びかけの質が、そのまま各自の意識に映る世界の、見え方の違いを生んでいる。
豪華に見えるとか、輝いて見えるとか、豊かに見えるとか、そうした不覚社会で求められがちなユートピア風の見え方ではない。
今、世界がどう変化しているのか。自らと言うちっちゃな“これ”は、その中で何をする必要があるのか。
そこが自然と分かるかどうかの違いを持った、見え方となる。
呼びかける時、伝えるものとは。
(2024/5/16)