《厄介払い?》
断って捨てて離れる動きもそうだが、清々しく暮らそうとして何かを手離す時に、欠かせないのが感謝して送り出すこと。
感謝する時、送られる側と送る側に、価値の差は無い。
送られる側が高く持ち上げられているなら、それは「礼儀正しくする」。
「恨まないで下さい」「祟らないで下さい」「戻って来ないで下さい」と念じつつ、穏便にお引き取り頂こうとするのは処世術で、感謝とも愛とも関係のない動きである。
片付けることに対する面倒くささで苛立つなどして送る側が送られる側を見下すなら、それも感謝や愛とは異なった変てこな動きとなる。
興味深いことだが、清々しさを求めて「あ~清々する!」と手離す時、そこには厄介払いの雰囲気が出て来る。
厄介の意味を調べたら「面倒なこと」「面倒を見ること」「世話をすること」と出て来た。
「増々変てこな感じになったぞ」
と驚いた。
断って捨てて離すのが面倒見てくれ世話してくれとぶら下がる人間とかであればいざ知らず、物の世話をするとか、物の面倒を見るってどう言うことだろうか。
意味が分からない。
どちらかと言えば、人の生活を便利にしたり楽しくしたりする、つまり人の面倒を見たり世話をする為に、人の都合で手に入れているのが所有する物達なんじゃないだろうか。
それがどうして厄介払いになるのか。
厄介について調べた中に、この言葉の語源として「家居」や「家抱」が訛ったものと言う説があった。
家に置いてあるだけで物も人の様に、世話をする、面倒を見る枠に入ったと見なしているのかもしれない。
他にも「厄難会集」を略した「厄会」が変化して厄介となったと言う説があり、厄会とは「災いの巡り合わせ」と言う意味らしい。
語源について辞典には「諸説あるが、よく分からない」と書いてあった。
謎の厄介。
出所も分からないふわふわしたものを物や者に対してそれがそうだと見なして、払うとは。
どうやって?
本当に、奇妙なことだ。
清々しく生きる時に、必要なのは当人の姿勢。
天地を貫き真っ直ぐに中立である姿勢は、個の都合を外すことによって自然に可能となる。
個の都合を持ったままで、周りから支えられることで姿勢を真っ直ぐにしようとして、人は環境を整えたりもする。
そうして断ったり捨てたり離れたりして起こる「清々する!」は一種の興奮状態であり、それは粛清に近い。
厄介払いは一時、厄払い出来た様な気になれるものなのかも知れない。
それも勿論それぞれの自由で良いも悪いも全くないが、何かを厄扱いして追っ払っても、形を変えて戻って来る。
それも厄とセットで。
感謝で送り出すと、厄どうこうに関係のない未知なる新たな形となって現れる。
全体一つだから、点滅が移り変わっているだけで、新しい点滅が新しい形を表現する。
何かを手離す時、お別れの気まずさも、清々するわも、本当は必要ない。
人間ドラマのスパイスとして、人が嗜んでいるだけである。
愛と感謝で、事足りる。
(2023/10/5)