《剣で刻む?》
前回まとめの記事を書かせて頂いた時、面白い所を探してみると言う、これまであまり世の人が行って来なかったかも知れない、恥との付き合い方をご紹介した。
探すも探さないも勿論自由だが、面白とおふざけをごっちゃにしている人は「ふざけるな!」となるかも知れない。
「こっちは真剣にやっているんだ。笑ってる場合じゃないんだよ」
「生真面目な性分で、向き合っている事態を笑うことが出来ない」
「辛い思いをして苦しんでいるのに、それどころじゃない」
等々。
こんな感じで恥を避け、迷いながら正解を探し、結局似た様な所をぐるぐる回っている人々は、真剣と深刻の区別がついていない。
自他を深く刻むだけで放置していても、消化も昇華も成せない。
傷めつけるのみで吞み込みがないなら、それは“いたずら”にしていることと言えないだろうか。
いたずらは、徒や悪戯とも書く。
真面目な風で悪戯とは何とまぁややこしいことをするのかと、ある意味感心しながらふと、浮かんだのが
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
石川啄木の有名な短歌である。
訳の分からない動きだが、人は泣きながら戯れることもするのだ。
この奇妙な歌には何か隠された意味でもあるのだろうかと調べてみた。
本人による解説は見つからなかったが、啄木の友人である宮崎郁雨が、この歌と作者について著書の中で記したと言う記述を発見した。
「本物の蟹と等しく、彼の人生行路ではひねもす横這いし続けて居た。その蟹は時としては鋏を振立てて彼自身に敵対もするのだが、彼はそれを愛惜したり憐憫したり、憎悪したり虐待したりして、遣り場のない鬱情を霽らして居た。この歌はさうしたみじめな生涯を自憫する啄木の悲鳴であった。」
これが的を射ているのならば、隠された意味はなくもうそのまんま。
解説されたことで詳しくなっている分、奇妙さも増していてびっくりした。
蟹がハサミを振り立てたのは、自分をいきなり持ち上げたり指で押したりして来る勝手な生き物の、蟹からしたら巨大な手から、蟹自身の安全を守る為である。
ウザ絡みせず放っておけば、積極的に敵対などして来ない。
それに、横に歩くことは蟹が進化の過程で獲得したスタイルであり、蟹には蟹の、種族として追求して来た生き易さがあるのだ。
そうしたことを無視して、自分目線で上手く行っていなさそうに見えた生き物に、勝手に自己投影して鬱憤を晴らそうとしても、どうしたって上手く行きようがない。
何故啄木は、急な人間との戯れの強要が、蟹サイドでどう感じられるかに意識を向けなかったのだろうか。
ハサミを広げた状態で約3メートルある世界最大のタカアシガニや、致死量の猛毒を持つウモレオウギガニ、スベスベマンジュウガニなどの場合を除いて、人間が蟹と対峙した時に生命の危機を感じることはほぼないだろう。
だが、蟹の方はどうだろうか。
蟹から見て有難くない戯れを気ままに実行出来る所に、啄木の意識が持つ強烈な自他の分離を感じる。
実際は鋏まれたら怖いなどとなって実行せず想像で書いたかも知れないし、本当に啄木が戯れたのかどうかは置いといて、自分の抱える深刻さに周囲を無理矢理付き合わせることは、自他の別ない意識とは言えない。
そして真剣とも言えない。
己の行いを戯れだと認められる分、深刻と真剣とを一緒くたにしている人々より啄木の方がまだ冷静に自己を観察していたのかも知れない。
正気かな?となる点では変わらないが。
真剣とは、真っ直ぐな意志があって初めて成せること。
真っ直ぐである時、両端はそれぞれ天と地に向かっている。
真っ直ぐな意志には、中立な観察が欠かせない。
真剣勝負として誰かと戦う場面があったとして、それは試合であり、虚空による試みで合わさる弥栄の機会である。
真の剣は、誰かに向けて振り下ろしたり、突き刺したり、なますに叩くものではないのだ。
切り刻んでも、片付かない。
(2024/4/22)