《何待ち?》
様々なニュースを眺めている時、この国に関するもので「先行きが不安」と言う内容を目にすることがある。
勿論、出来ることやりましょうよとかしていますよと言った、爽やかな内容を見ることもあり、現状の把握や反応は個々の端末それぞれ異なる。
だが、国や政府に対しては不信とか不安と言った見方をする人は多い様だ。
それは素敵なお知らせである。
どこが素敵なんだとなる人も居るだろうか。
どこが素敵か。
国家に将来をふんわり保証されている感じがどんどん薄くなり、現在老境に入っているとされる人々に向けられている手厚さが、将来世代には用意されない雰囲気が出て来た。
となれば、自ら手厚さを叶えるだけの備えを用意しようとする。
だから大変なんでしょうよと仰る向きもあるかも知れないが、この「用意して貰える」と「用意する」の違いは、手間暇努力だけではない。
主権が何処にあるのか。
主権が政府等社会を取りまとめる、言って見れば一部の代表ではなく当事者それぞれに帰する。この違いは途轍もない変化を生む。
凄いことだと、歓びで謎のステップを踏んだ程である。
何故ならこの国の歴史を眺めてみて、人それぞれに主権があったことって、何か挙げられるだろうか。
朝廷が出来たのも、幕府が出来たのも、維新が起こったのも、世の多くの人にとっては
「何でか知らん間に」
じゃないだろうか。
他の国だってそうでしょうよとなる方も居られるかも知れないが、この国で生かさず殺さずの手綱捌きによって保たれて来た「御上に逆らっても無駄」と言う意識は世界でも珍しい強固なものだった。
だったがその手綱が綻び、手綱を持つ手の力も衰えて来たことで、人馬共に「あれれ?」となっている。
主権がない状態に慣れ切って居た為、初めは放り出されたような気分になったり「無責任じゃないか!」と腹を立てたり嘆いたりする声も多いだろう。
だが、権利と責任はセットなので当事者にそれらがあることを自然に感じる様になると、意識が手離していた力がどんどん戻って来る。
それを歓べる人々にとっては、この流れは素晴らしい後押しとなる。
意識に主権が戻る時、見方も行動も変わる。
そしてそれは一部からの支配や制御が難しいものとなる。
餌を自分で取って来いと馬を野に放ったら人間になってしまった。
そんな変化があちこちで起こり、牛馬の如き身に何が出来ると、飼い主気分で居た者達がこんなはずではと慌てる場面も増えるだろう。
更に申し上げると、主権を活かすには意識がはっきりしている必要があり、それには心身健やかであることは欠かせない。
何につけ御上の沙汰を待って諦め半分で投げていた頃よりずっと、「自ら」と感じている意識や御神体の健康に対して力が注がれる様になる。
人々の意識に「主権ここにあり」の灯がともる時、何かを待って暇を潰す姿勢は消える。
するもしないも自由である中で、「決めました!」と意識がはっきり認めて意志し、行動に移すこと。
主権を自分や自分の好む者の得になる為に使おうとすることも勿論出来るし、覚めぬままなら大抵はそこから始まるだろう。
そこから成長し、変化して行く人々をこちらは観察している。
変容の時代には内なる全母性を発揮する者が栄えて行く。
主権をもって全体一つの弥栄に貢献すると、内なる全母性も更に育って行く。
人は無限に進化成長することが出来る。
待つことに慣れてもう動きたくないとなる人々も居るだろう。
何を待って、何が来るのか知る由もないが、それも又、自由。
何か来たなら一体何が来たのか聞いてみたい気もするが、こちらは何も待っていないので引き合わず、お目にかかることは難しそうだ。
待たぬ世界の面白さ。
(2023/10/16)