仙聖せんせい行方ゆくえ

 

道楽が進んだ先に、修行があったりする。

 

これも又、人間あるあると言える。

 

『食道楽』が売れただけでなく、理想の女性であり妻であると夫自ら褒め讃えた夫人との間に、三男三女の子宝にも恵まれた村井家。

 

弦斎は活動の場を、新聞小説から雑誌『婦人世界』の製作へと移す

 

雑誌社に請われて小説も書き、『食道楽』程ではないにせよ再びヒットさせるなど活躍は続いた。

 

 

はたから見れば順風満帆そのもの。

 

 

娘時代には○○小町と言われた17才年下の妻。可愛い娘や息子たち。先生と呼ばれる身分。潤沢な資産。訪ねて来る各界の著名人有力者とのコネクション。世間からの注目評判

 

ざっと並べたが明治でも令和でも変わらず、世の人々が羨み易いものばかりではないだろうか。

 

17も下の子を異性として見るとか引くわ~と言ったご意見もあるかも知れないが、良い悪い抜きで世間を観察してみると、「若くて」「器量よし」を世の多くの人々が重要視していることは明らかだ。

 

妻の年若を羨むと言うのは耳にしても、年嵩を羨まれると言うのは聞かない。当時の同性も多少引きつつ羨む人が多かったんじゃないだろうか。

 

そんな幸福全部乗せみたいな状態にあった弦斎先生。

 

 

さてそこからどうなったかと眺めていたら、『婦人世界』に載せる記事は次第に、世間で言う美食から離れて行く。

 

切っ掛けは一つではないが『食道楽』の頃からあった、正しき道を一般大衆に啓蒙する先達たろうとする弦斎の意気込みと、当時国民病と言われていた脚気の存在が大きかった様に感じる。

 

令和でこそ脚気は「名前は知ってるけど…」位の存在で、大して怖がられてもいないが、原因がまだ特定されていなかった当時には恐ろしい病だった。

 

有力視されていた伝染病説と、特定の栄養素の欠乏が原因だとする説が押し合いへし合いワーワーやっていて中々結論が出ない

 

そんな中でも脚気の患者は増えるし亡くなる人も居る

 

村井弦斎と言う人を資料を通して観察していると、こう言う場面でひと際情熱燃え上がるタイプだったみたいである。

 

 

『食道楽』時代、既に玄米と糠が脚気治療に有効であると書いていた弦斎は、『婦人世界』の紙面を使ってより詳しい内容の記事を出す。

 

読者からの反響は大きく、紙上に寄せられた効果有りの報告も集めて掲載し、古巣の報知新聞にも広告を出した。

 

医学者ではないからと言う理由で、専門家からは軽く扱われたそうだが結果として調査の内容は的を射ていたことも明らかになる。

 

この“成功体験”が彼に、人の行かない嶮しい道を行く喜びを強く印象付けたのではないだろうか。

 

読者受けして作品が売れはしたが、小説家としての文壇からの評価は低いと言うか無視に近い状態であったと言う。

 

社会正義の為にと熱心に啓蒙活動をしても、専門家からは素人がしゃしゃり出て来たものとして軽い見られ方をする。

 

 

こうした扱いは代々学問に秀で「先生」と呼ばれる立場で来た家系に生まれた男にとって、不満の残るものだったとしても不思議ない

 

もっと正式に認められたいと言うフラストレーションが、誰も追いつけない突飛な研究に彼を走らせたのだとしたら、それも何だか人間臭くて面白いなぁとしみじみした。

 

弦斎はこれ以降、断食や木食を試す様になる。

 

玄米食なら現代で健康常識の一つみたいになっているし、断食も“プチ断食で腸をリセット”程度のキャッチコピーなら雑誌の表紙にあっても何の違和感もない。

 

何かと新し過ぎかつやり過ぎがちだったのかも知れないが、明治期における35日間断食は当時の人々からすれば即身仏にでもなる気なのかと呆れる様な奇行に映ったろう。

 

 

事実、奇人変人呼ばわりも結構されたようである。

 

木食から更に、自然に存在するものを火を使わずに生で食べる天然食へと歩を進め、狩猟で獲った小鳥をそのままバリバリ食べてみることもあったそうだ。

 

現代において自然食を推奨する人々から見ても相当ハードルの高い栄養摂取方法にチャレンジしている。

 

そんな夫の姿は、かつて工夫を凝らした料理の共同発信者として協力し、『食道楽』のイメージキャラクター的役割も果たしていた多嘉子夫人の目にはどう映っていたのか

 

 

興味が湧いたがはっきりとした言葉は見つけられなかった

 

何につけ、やるならとことんみたいな性格だった弦斎。

 

酒が体に及ぼす害を説き、結婚したら妻以外の女に現を抜かすことなかれと説く。

 

仙人もそうだが、世の人から見たら聖人を目指して居る様にも思えたかも知れない。

 

おそらくは彼なりに健康に良いものや人にとってあるべき姿を求めて突き進んでいたのだろう。

 

何の為に?

 

それについて、ああこれかと頷けるものを、『食道楽』の前に彼が書いていた長編小説『日の出島』に登場する、幸福先生というキャラクターの言葉の中に発見した。

 

幸福先生は自分の妻には百の趣味を与えたい、一つの趣味を研究するのに三年かかると百の趣味を研究するには三百年かかると語る。

 

「吾輩ども夫婦は三百年も五百年も生きる量見で居るのです」

 

弦斎先生は、望んだ通りに幸福先生となれたのか。

 

長くなったので、続きは次回に譲ることにする。

 

幸福は教わるもの?

趣味は与えられるもの?

(2023/11/16)